信じた時に(永井明牧会長)

 ルカの1:26~38節には、マリヤの「受胎告知」が書かれてあります。これは「処女降誕」の始まりですが、多くの人の「つまずき」ともなる箇所です。しかし、私たちは自分の知識や知恵によって「神の知恵」を退けてはなりません。これはイエス様の「十字架による救い」にも言えることです。人々はこう言います。「死んだ人がどうして人を救うことが出来ようか?」と。(コリントⅠ1:18)
 この質問に答えるために「処女降誕」は欠かせないものです。
 一人の人(アダム)によって罪が全人類の中に及びました。ですから、すべての人が神様の目には「罪人」です。パウロは「私はしたくないと思っているのに、つい悪いことをしてしまう。」と、人間の弱さを告白しています。「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)
「罪」の解決は、お金や教育の力や道徳の力では得られません。
イエス様の「十字架」こそが「罪の赦し」を得る唯一の方法なのです。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)
イエス様がお生まれになった当時は、結婚前に妊娠したことが分かると「石打ちの刑」にあって死ななければなりませんでした。
そのような状況で、マリヤは天使から「受胎告知」を受けたのです。
当然、マリヤは信じられず「どうしてそのようなことがありえますか?私はまだ男の人を知りませんのに。」と驚き答えました。
 「信仰」とは「信じられないことを信じる」ことです。
 旧約聖書では、アブラハムの妻サラが、また新約聖書ではザカリヤの妻エリサベツがそれを体験しました。彼女たちは共に「不妊の女」であり年寄りでした。ですから、「子を生む」可能性など全くなかったと言えます。しかし、天使が預言すると彼女たちはその預言通り、男の子を産んだのです。これは、この世の常識を完全に打ち破る出来事でした。この事を通して、人々は「神様のことばは必ず実現する」という神様のことばの偉大さを目の当たりにしました。
 彼女たちは「不妊」が癒されました。しかし、マリヤの場合は「不妊」ではなく、男の人を知らずに、「聖霊によって」みごもったというのです。そのような前例は旧約聖書にも書かれてありませんでした。
 それにも関わらず、「あなたのおことば通りこの身になりますように。」と答えた彼女の「信仰」は素晴らしいものです。しかし、彼女はつきまとってくる「不安」をぬぐい去る為に、エリサベツに会いに行きました。すると、エリサベツはマリヤを見るやいなや、「あなたは女の中の祝福された方!~主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう!(1:42~45)と喜びました。その時、マリヤの「不安」は「確信」と変わったのです。
 一方、いいなずけのヨセフはマリヤのお腹を見て、絶望しました。しかし夢の中で、それが「聖霊による」ことであることを知り、マリヤを妻として受け入れる決心をします。
 「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認するものである。」(ヘブル11:1口語訳)これが信仰の大法則です。
 主は生きておられます。今も生きて働かれるお方が、私たちを救い、導いて下さるのです。十字架のことばは、救いを受ける私たちにとっては神様の力です。マリヤのように、神様のことばを信じましょう。

コメントを残す

コメントを投稿するにはログインしてください。