ホサナ通信(1981.8.9号)

園児たちが帰宅して人気のなくなった幼稚園の庭に、練習から解放された音楽教室の生徒たちがワーッと走り出ました。先程の練習時間中とは打って変わった活発さで走り廻っています。長男もその一人です。
「さあ、恒喜。帰りましょう。」
長男を自転車の荷台に載せて幼稚園の門を出ようとしたとき、ふと鉄棒が目に入りました。そういえば、この間の参観日に長男の教室に行ったとき、壁にこんな貼り紙がありましたっけ。ロケット型に切り取った紙に、生徒たちのそれぞれの願いが書かれてあるものです。「計算が速くできるようになりたい」、「泳げるようになりたい」、「速く走れるようになりたい」等々。長男のは「逆上がりが出来るようになりたい」でした。
そうだ、今練習をさせてみよう。鉄棒もあることだし・・・。
「恒喜。逆上がりの練習をしてみたら?ほらここの鉄棒で」と言うと、「えっー!逆上がり?いやだなぁ、ぼく出来んちゃも」といやな顔をします。
「あら、出来ないから練習をするんでしょ?逆上がりが出来るようになりたいって書いてあったじゃない。」「う~ん、なりたいけど・・・。」「じゃあ、やろうよ。やってみてごらん。」
しぶしぶ鉄棒に向かう長男。ドッコラショと足を上げますが、手が伸びきってしまっていて鉄棒まで足が届きません。「恒喜、最初からぶら下がっちゃだめよ。手を伸ばさないで、腰から前へ押し出すようにしてごらん。」
ヨイショ。さっきよりは少し良くなったみたいで、太股が鉄棒に触れるようになりました。最後の一押しを助けてやると、クルリと廻れるようになったのです。「ほら、もう少しよ。頑張ってごらん。」と励ます私に、本人は「お母さん、今日はもういいが。また明日にする」とやる気のない様子。「やってごらん。もうすぐ出来るようになるから。途中で投げ出すと何も出来ないわよ。」ともう一声掛けると長男の顔がパッと明るくなりました。
「あっ、あの自転車の時もそうだったね。頑張ってやったら乗れるようになったっちゃがね」と、もう一度逆上がりに挑戦です。」五才の時に初めて自転車に乗れるようになった、そのことを思い出したのでしょう。あのときはあちこち傷だらけになって、泣きながらでもがんばって乗れるようになったのでした。
ダビデも逆境の時、「さあ、私のたましいよ、元気を出せ。あの日のことを思い出すのだ。よもや忘れはしまい。あの祭りの日、多くの先頭に立って神の宮に参り、喜びに満たされて賛美の歌を歌ったことを」(詩篇四二・四 リビングバイブル)と、前の喜びを思い出して心を奮い立たせていましたっけ。
それから数分後、とうとう逆上がりが出来るようになりました。自転車の後ろで少し興奮しているらしい長男の様子を背に感じながら、我が家に向かいます。
その日の夜書いた長男の日記。
「きょうは、おんがく教室でした。そしておわったら、てつぼうにいってさかあがりのれんしゅうをしました。ぼくは、もうすこしのところでおちるからおかあさんにおしてもらいました。でもおちそうだったから、こわくてもうやりたくないと思いました。ぼくは五さいのときのじてんしゃのれんしゅうみたいにがんばってやろうと思ってやりました。そうしたらちゃんとまわれました。とってもうれしかったです。」

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