イエス様にとどまる

「~わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。~」

(ヨハネの福音書15:1~15)

 ぶどうの木は、野生のままでは豊かな実を結ぶことが出来ません。ですから、必ず接ぎ木をします。そうするならば、例え、野生であっても、良い木に接ぎ木されたその木は立派な実をつけるようになるのです。
 クリスチャンは、イエス様を信じた時に接ぎ木された者となりました。もともとは、罪のゆえに良い実を結ぶことが出来ない者でしたが、イエス様によってすべてが新しくなり、良い実を豊かに結ぶものとして変えられたのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第Ⅱコリント5:17)
 信仰とは、イエス様ご自身の中に私たちを置くこと。つまり、イエス様の言葉を信じて従うことです。例えどんなに人が否定的な言葉で攻撃してこようとも、私たちは、人の言葉ではなく、イエス様の言葉によって私たち自身を建てあげていくのです。神様は、愛なるお方であり、私たちにいつも愛を注いで下さいます。
 人々は、愛を求めて生きていますが、どこに愛を求めてよいのかが分からずに生きています。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」(箴言19:22)
 イエス様の弟子であったペテロは、イエス様にどこまでもついていくと宣言しました。しかし、イエス様が捕らえられた途端、彼はイエス様を知らないと言い、最後は呪って誓ったと聖書に書かれています。ペテロはイエス様を愛していましたし、ついていくという気持ちも嘘ではありませんでした。しかし、完全な愛ではなかったのです。人間の愛というものはそのようなもので、だれもペテロを責めることは出来ません。しかし、イエス様はそんなペテロの弱さも愛されました。私たちは自分の愛のなさ、また足りなさに失望しますが、イエス様の愛は、そのような不完全な私たちの名を呼び、抱き寄せて下さる、計り知れない愛です。実際に、イエス様は復活後、再びペテロに現れ、彼に変わることのない愛を示し、励まされました。本物の愛を知ったペテロは、イエス様が本当の神であることを大胆に語り、殉教に至りました。
 イエス様は、永遠に変わらない本物の愛を示すために、この地上に来られ、私たちの身代わりとなって罪の罰を背負い、十字架にかかられました。ヨハネの15章には「とどまりなさい。」という言葉が何度も書かれてありますが、イエス様の言葉を信じ、イエス様に従う時、私たちはイエス様の愛を知り、すべてが新しくされます。そして、神様のために良い実を豊かに結ぶ者となるのです。
 良い実は、信仰の言葉を告白することによって結ばれます。ですから、今年も、聖書を読み、聖霊様の語りかけに耳を傾けましょう。そうするならば、聖霊様が、悟る力、勇気、そして愛する力を与えて下さいます。「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」(箴言18:20)

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