無条件の愛 Ⅰヨハネ4章7~10節

富高尚師

 福音は「良い知らせ」と言われますが、果たしてその中身は、どんな知らせのことなのでしょう。もちろん、イエス様が十字架で私たちの罪の身代わりとして死んでくださったこと、葬られたこと、三日目によみがえられたことですが、そこに啓示された内容とはどんなことなのでしょうか?それは、今日読んだ聖書箇所に書かれた、「神の愛」(Ⅰヨハネ4:9)です。これこそ、福音の中心であり、本質であるといっても過言ではありません。
 黙示録2章に、エペソの教会に対する警告が書かれています。エペソの教会は、良い行いで知られ、悪を憎み、善のために忍耐して働くりっぱな教会として知られていました。しかし、そんなまじめなクリスチャンたちが重大な罠に陥って、「初めの愛」から離れてしまったというのです。それは、よく言われる、教会から離れたり、信仰的に落ち込んだりした人々への忠告ではありません。イエス様のために、熱心に労苦と忍耐をもって悪と戦い、善に励でいたまじめなクリスチャンに対して書かれた言葉なのです。
 このことを理解するためには、「初めの愛」という言葉について知る必要があります。それは、「最優先されるべき神様の無条件の愛」という意味です。つまり、「この世の初めからあった愛」であり、「神様がはじめから持っておられる人類への愛」です。神様は人間を創造された瞬間から、人間を愛し、その愛は、人間が罪を犯した時も変わらず、神様に反抗している時も、罪のあるなしに関わらず、愛してくださる「無条件の愛」なのです。神様は世を愛されたので、ひとり子をお与えになりました。(ヨハネ3:16)私たちが神様を愛したから、御子をお与えになったのではありません。「私たちがまず神を愛した」のではなく、「神がまず私たちを愛された」のです。これが、福音の中核であり土台です。
 もし、教会(イエス様を信じて集まるクリスチャンひとりひとり)が、「初めの愛」から離れ、自分がどれだけ神様を愛しているかを誇り、人にもそれを強要し、あたかもそれが福音であるかのように人々に押し付けるなら、神様が「燭台」を取り外す(黙示録2:5)と言われたように、神様がその教会を取り除かれます。しかし、教会が悔い改めて、「初めの愛」に立ち返るなら、神様は「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせて」(黙示録2:7)下さいます。教会は地上でパラダイスとなり、人々はいのちにあふれ、勝利を体験し、地上において神様と共に歩む、御国の祝福の中に入れられるのです。
 神様がまず私たちを愛してくださった(Ⅰヨハネ4:19)ということを知り、体験しなければ、神様を愛することも、人を愛することもできません。問題は、私たちが神様を愛していないことではなく、神様がどれほど私たちを愛しておられるかを知らないことなのです。
 イエス様は、私たちを愛しておられるので、私たちと「個人的な交わり」を求めておられます。それは、私たちが一生懸命努力して、頑張ってイエス様をどれだけ愛しているかを証明するものではありません。イエス様との「個人的な交わり」とは、ありのままのあなたを、無条件の愛で愛して下さっていることを知り、味わい、その中にとどまり続けることなのです。イエス様からどれほど愛されているかを知ることこそ、イエス様との個人的な交わりの秘訣なのです。神様の無条件の愛の中にとどまり続けましょう。

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