神の義とは ローマ人への手紙 1章16~17節

富高尚師

「義」という言葉は抽象的で分かりにくい言葉です。しかし、福音について私たちが知るためには、神の義を正しく知らなければなりません。なぜなら、福音には「神の義」が啓示されている(ローマ1:17)と記されているからです。
 福音についてまず知らなければならないことは、ここにもはっきりと書かれている通り、それは「神の力」だという事です。決して人間の力ではありません。福音は、人の力や努力、熱心さや情熱によって成し遂げられるものではありません。聖書は初めから福音は神の力だとはっきり言っています。
 ですから、神の義に到達しようとして人がどんなに努力しても、どんな立派な行いを積み重ねても、到底、神の義には到達できないのです。人の義とは、自分の行いの上に成り立っていますので、いつも不安定です。昨日は良かったのに、今日はダメ。こんなことでは明日はどうなるのだろう。という、不完全で不確かな義なのです。このような自分(人間)の義に頼って信仰生活を送っている人は、常に自分の不完全さや罪に対する無力さを意識して、罪悪感に囚われた信仰生活となり、神様との交わりにいつも平安がありません。恐れと不安から、さらに頑張らなければといつも心は満たされないのです。これは「福音」でしょうか。これは「良い知らせ」でしょうか。絶対にそんなことはありません。
 しかし、福音の中に啓示されている神の義とは、神様が人間のために備えてくださった義、神様が人間に与えて下さる義なのです。福音とは、人間がどうすれば神の義に到達できるかを啓示しているのではなく、神様が信じるすべての人にご自分の義(神の義)を与えて下さるということが啓示されているのです。
 イスラエルの人々は、行い(律法)によって神の義に到達しようと努めてきましたが、どんなに頑張っても到達することが出来ませんでした。私たちも同じ過ちを犯さないようにしなければなりません。(ローマ9:31~32)
 イエス様は、私たちの義が、律法学者やパリサイ人の義(人の義)にまさるものでなければ神の国に入ることはできないと言われました。(マタイ5:20)私たちは、どのようにしてパリサイ人にまさる義を持つことができるでしょうか。行いによっては絶対に無理なことです。
 しかし、神様はご自分の義を、「神の義を行う人」にではなく、「神の義を信じる人」にお与えになると定められたのです。これが「福音」であり、「良い知らせ」なのです。
 人が義とされるのは、律法の行いとはかかわりなく、信仰によるのです。たとえ何の義の行いのないものであって、イエス・キリストを信じる信仰によって義とみなされるのです。(ローマ4:5)

コメントを残す

コメントを投稿するにはログインしてください。