何故、「信じたら」救われるのか?

富高美和師

「見よ、わたしは新しいことを行う。~野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。」(イザヤ43:19~21)
 神様は、イスラエルの民に「わたしが主である。わたしを信じなさい。」と幾度も語って来られました。ある時は預言者を通して、ある時は奇跡を通して。しかし、彼らは信じなかったので、国は分裂し、敵の手に渡されることになります。イザヤは、南ユダがバビロンによって滅ぼされるが、主によって救われることを預言しました。主は「新しいことをする」と言われたのです。
 神様が行う新しいこと、それは「誰も見たことのないこと」です。20節には「わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ」とありますが、神様は絶対に水が湧くことのない砂漠に水を溢れ出させ、川を流れさせ、そこに命を与え、死んだ地を生かすことの出来る方です。野の獣たちも神様をあがめるようになる、それはイエス様が再臨された時、千年王国で見ることの出来る姿です。再び来られたイエス様が王として治める国では渇くことがありません。いのちの水が溢れ、死んだものもみな生きるのです。(エゼキエル47章)
 この地に「荒野」「荒れ地」があることは、神様の御心ではありません。何故なら、神様は地をそのように創造されなかったからです。「神は仰せられた。『地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。』すると、そのようになった。」(創世記1:11~13)
神様は、初めに地を創造された時、大いに祝福し、満足されました。地は豊かな実を実らせる木や植物でいっぱいでした。荒野は神様の御心ではありません。人間の心もそうです。私たちの心が荒野のように荒れ果てて、道がなく、どこにゴールがあるか分からない、水がなく渇ききって不安や恐れでいっぱいになっている、そのような心は神様の御心ではありません。神様は人間をそのようにお造りにはならなかったからです。神様は人間を愛し、そして良いもので満たしました。神様のことばに従って歩むこと、それが人間にとって「道」だったのです。神様は、人間のために必要なものを全て備えられていました。
 何故「荒野」「荒れ地」が存在するのでしょうか。その原因は創世記3章に書かれてあります。「17また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。」アダムとエバがサタンの声を聞き、そして神様の命令に逆らった時、地はのろわれました。そればかりではない、神様のことば通り、人間に特別に与えられた「霊」が死に、肉体も老衰して死ぬことになりました。
 一番の問題は、彼らが神様を信じなかったことです。神様が愛なるお方であり、すべての必要を満たして下さる良い方であることを信じませんでした。彼が信じなかったので、神様との関係に亀裂が入りました。和解するためには、もう一度人間が神様のことばを信じなければなりません。神様は救いの道を用意されました。イエス・キリストを救い主として受け入れ信じるなら救われるという方法です(ヨハネ福3:16)。神様はあなたを赦し、滅びから救うと言って下さる愛なるお方です。信じるなら、聖霊によって再び霊が生きる者となり、いのちの水が湧き出る者となります。(ヨハネ福7:37、38)

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