律法からの解放

富高尚師

 ガラテヤ書には、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」(5:1)とあります。これは、宗教的な様々な戒律や決まり事に囚われていた律法からの解放であり、その多くは、人間の勝手な解釈によって作り上げられたものです。イエス様は、そのような律法の下にいた私たちを解放してくださったのです。福音が私たちに与える最も大きな祝福の一つに、「律法からの解放」があります。しかし、イエス様が律法から解放してくださったのに、多くのクリスチャンが律法に縛られ苦しんでいる現実があるのです。福音を正しく理解していないために、「罪は赦されたけど、まだ罪人」、「義とされたけど、聖めは自分の責任」、「愛されてはいるけど、愛され続けるためには努力が必要」などと、福音の恵みを不完全なものにしてしまっているのです。同じように、律法に関しても、「クリスチャンは律法を完全に守らなければならないのに、自分にはできていない。」と自分を責めているのです。
 どんな宗教にも、戒律があり、それを守るように教えています。しかし、神様がイエス様を地上に送られ、人を救われたのは、私たちが律法を完全に守るようにするためではありません。聖書は、律法を守り行うことによっては誰ひとり義と認められる者はいないと断言しています。(ローマ3:20)
 神様が御子イエス様をこの世に遣わされたのは、律法の下にいた私たちを贖い出すためなのです。(ガラテヤ4:4)
 しかし、イエス様の「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(マタイ5:17)ということばをみると、律法は大切だし、完全に守らなければならないと考えてしまいます。
 ですが、「律法を廃棄する」とは、ラビ(ユダヤ人教師)の慣用句で、律法を変える、緩める、間違った解釈をするという意味です。同じように「律法を成就する」とは、正しく律法を解釈し適応するという意味であり、律法を完全に守るようにという意味ではありません。
 また、イエス様は当時の人々に、忠実に律法を学び行っている律法学者や古くからの言い伝えを守るパリサイ人たちを例に、彼らの義よりも勝る義を持たなければ天の御国に入ることが出来ないと言われました。(マタイ5:20)そして、当時の律法の解釈に勝る、よりレベルの高い要求をされていることが分かります。(マタイ5:21~48)
 では、私たちは、どのようにして律法学者やパリサイ人に勝る義を得ることができるのでしょうか?自らパリサイ派に属し、律法を忠実に守り行っていた代表的な存在のパウロが次のように言っています。「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って」(ガラテヤ2:16)と。
 律法学者やパリサイ人に勝る「神の義」を得る方法は、たった一つです。それは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死なれた方、葬られて三日目によみがえられた方、今も生きて、私たちと共におられる方、イエス・キリストを私たちの救い主と信じることだけです。その福音の恵みによって、私たちは律法の下から贖い出され、完全な自由を与えられたのです。

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