イエス・キリストの名によって 使徒の働き 3章1~10節

富高尚師

 ペテロとヨハネが宮に上って行くと「美しの門」の前に、生まれつき足の不自由な人が座っていました。彼は、身体に障害を持っているために、当時の律法により、神殿の中に入ることはできませんでした。彼が二人を見て施しを求めると、ペテロが「金銀は私にはない。」と答えました。彼は大いに失望したに違いありません。しかし、話はそこで終わらなかったのです。ペテロは「私にあるものをあげよう。」と言って、イエス・キリストの名によって彼を立ち上がらせ、歩かせるという奇蹟をおこしました。
 今の私たちが聞いても驚くべき出来事ですが、当時の人たちにとってもそれは「ものも言えないほど驚いた。」(3:10)出来事でした。生まれて40年以上(4:22)歩いたことのない人が突然歩き出し、しかも飛び跳ねることなど到底考えられません。しかし、その時の状況を、医者であるルカが正確に記しています。まず、足とくるぶしが強められたのです。(3:7)イエス・キリストの名によって完全で完璧な癒しがそこで行われました。
 彼の人生は、イエス・キリストの名によって一変しました。これまで、彼が求めていたのは「金銀」です。生活のための必要を毎日求めて宮の前に置いてもらっていました。でも、彼が心の奥底で、本当に求めていたものは神様との交わりだったのではないでしょうか。なぜなら、足が癒されて彼が真っ先に行ったことは、神を賛美することでした。もちろん、足が癒されたことに対する喜びの応答として当然ですが、そのままペテロとヨハネについて宮の中に入って行った姿に感動を覚えます。足が癒されて、真っ先に自分がしたいこの世のことをしたのではなく、それまで入ることのできなかった宮に入って、神様を心から礼拝したに違いありません。ユダヤ人として生まれて、当然のことがそれまでできなかったのですから。
 私たちは、今日も礼拝にこうして集まって、神様の前に進み出ることを赦されています。これは驚くべき恵みであり、奇蹟ですね。なぜなら、この生まれつき足の不自由な人と同じように、律法によれば私たち「異邦人」は宮の中に入れないからです。私たちはイエス・キリストの名によって与えられた特権によって宮に入ることが赦された者です。イエス・キリストの名によって神の子とされたからです。(ヨハネ1:12)「イエスの名により」とは、私たちの罪のために身代わりとして死なれ、葬られ、三日目によみがえられたイエスの名を信じることです。その時、私たちは宮に入ることができる身分に変えられるのです。
 私たちの信仰生活が、「礼拝」と言いつつ、ただ、宮の前に座って、「金銀」を求めるだけの毎日になっていないでしょうか。神の子とされた私たちは、門の前に座っていないで、立ち上がり、歩き出して、堂々と宮の中に入ることができるのです。それだけではありません。私たちは、聖所を通って至聖所までも今は入ることのできる者とされています。そこは、神様の臨在の場です。そこで神様は私たちと交わりたいと切に願っておられます。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩き出し、宮の中に入りましょう。

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