父の日礼拝~天の父を知る~

富高美和師

(ルカの福音書15:11~32)
 「家族」は神様が造くられた素晴らしいアイデアです。子どもは父親を通して天の父の大きな愛をイメージすることが出来ます。また母親を通して守られる体験、優しさを体験し、親は子を通して、神様がどのような思いで御子イエス様を犠牲にされたかを知り感動することが出来ます。神様は、「家族」を通してもご自身を現して下さる方です。しかし、今の時代の家族はどうでしょうか。家族としての関係が崩れ、良い関係を築けていない人々を多く目にするのです。神様は良いものとして家族を造られたはずですが、どこから関係が崩れてしまったのでしょうか。
 創世記3章を見る時、その原因が分かります。神様はエデンの園を設け、そこに愛するアダムを置き、神様とアダムの関係は祝福されていました。神様はアダムにエバを与えました。そこに夫婦の関係が生まれます。神様との関係が祝福されていた時、彼らはすべての者に満足し、二人の間には愛があり、関係も祝福されていました。しかし、サタンに騙され、神様の愛を信じることが出来ず、神様に背を向けた時、彼らはもはや神様中心ではなく、自分中心の人生を歩むことになります。神様が、アダムに「何故、わたしの命令に背いたのか?」と問うと、「あなたが与えて下さったこの女が~」と言いました。愛する妻であるはずなのに、アダムは自分を守ろうとし、エバを「この女」と言いました。この時、アダムとエバの関係は完全なものではなくなりました。罪が入った瞬間、人は自分中心になり、自分中心は、関係をうまく築くことは出来ないのです。では、どのようにしたら良い関係を築くことが出来るでしょう。それは、父なる神様との関係を修復するほかありません。信じなかったので、神様との関係が断絶されました。だから、イエス様の十字架と復活を「信じる」だけで救われ、父なる神様との和解が与えられるのです。(ヨハネの福音書1:12)そして、父なる神様がどのようなお方かを知る必要があります。
ルカの福音書15:11~32には、放蕩息子の例えがあります。父から財産をわけてもらった次男は、自由を求めて遠い国へと旅立ちました。父のもとにいた時は、神様中心の世界でした。父はあらゆるルールを息子に教えました。しかし、息子は耐えきれず、人間中心、自分中心の世界に魅力を感じそこに住みました。しかし結果は、財産を湯水のように使い、ぶたの餌を食べたくなるほどに落ちぶれてしまったのです。注目すべきところは、彼がここまで困窮していたのにも関わらず、だれも彼を助ける人がいなかったところです。何故なら、彼は自己中心の世界にいました。自己中心は彼だけではなく、そこにいるすべての人がそうだったからです。犠牲を払ってまでも助ける人などいなかったのです。そこで彼は、この世界にいてはダメだと気づき、悔い改めで父のもとに帰ります。父親は、怒るどころか喜んで彼を迎えました。何故ですか。
父親にとって、息子が「悔い改めて帰って来る」ことが重要なことだったからです。父親は、上等な上着を着せ、指輪をはめ、履物をはかせ、息子として迎えました。そればかりではなく、親戚や近所の人を呼び祝宴を開き、彼らとの関係も修復してくれました。私たちの父なる神様は、関係を祝福して下さる方。私たちが父に繋がっていれば、私たちは良い父、良い母、良い人間関係を築き、栄光を現すことが出来る者として、世に遣わして下さるのです。

コメントを残す

コメントを投稿するにはログインしてください。