神のことばと聖霊の力

高森博介師

(へブル人への手紙2:10~18)

 聖書には、「神は愛です。」と書かれてあります。しかし、旧約聖書では、「聖絶」(皆殺し)を命じたり、愛とは正反対の厳しすぎる姿が現れていたりもします。第一歴代誌 13 章には、神の箱を新しい荷車に乗せ進んでいると、神の箱が倒れそうになったので、ウザが手を伸ばして支えた瞬間、主の怒りが燃え上がり、彼が打たれ死んだという記事があります。
普通に考えるなら「落ちようとするものを手で支えるのは当たり前のことではないか、なんて神様はひどいんだ」と「愛」である神様について分からなくなってしまいます。しかし、神様は神の箱をモーセによって作らせた時に、運び方まで指示していたのです。神の箱は、レビ人の中のケハテ族が担いで運ぶようにと。しかし、ダビデも、またウザも神様のことばを知らず軽んじていた結果、このようなことが起こったのです。
神様の愛には妥協がありません。そして神様の口から命じることばも妥協がなく、決して揺るぐことはないのです。神様のことばには力があります。
マルコの福音書11:12~23には、イエス様が命じられると、次の日にはいちじくの木が根本から枯れたという記事があります。季節ではなかったので、いちじくの実がなっていないのは当たり前ではないか、と私
たちは思います。しかし、イエス様がなされることには全てに意味があり、「教え」があります。御言葉によって教えられることは大事なことです。
 へブル人への手紙 2 章には、イエス様が十字架につけられたのは、多くの人の罪を背負い救うため、死の恐怖によって一生涯奴隷として繋がれている人々を解放するため(2:10、15)であったと書かれてあります。十字架の贖いのゆえに、信じる者は神の子の特権をいただき、アブラハムの子としての祝福をいただくことが出来るようになりました。(2:16)
 イエス様は神であられた方だったのに、ただ私たちをあわれみ、救うために自ら人間の姿を取ってこの地に来て下さいました。そればかりではなく、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることの出来るお方なのです(2:18)。イエス様は十字架に架かられ、復活された後、「聖霊を受けなさい。」と弟子たちに言われ、天に昇られました。
それは、彼らが力を受けて神のことばである「福音」を人々に伝えるためです。弟子たちが求めると、イエス様は、助け主である「聖霊」を送られました。今は、聖霊様が働かれる時代です。
 聖霊様は、私たちに「神のことば」である「福音」を大胆に語らせて下さいます。そしてこの福音こそが、人々に罪の赦しを与え、死の恐怖によって一生涯繋がれている人々を解放することの出来る神の力なのです。
 常に聖霊様に満たされることを求め、強められ、神のことばである「福音」を大胆に人々に伝えてまいりましょう。神様は愛なるお方です。

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