「隠れたところに」

テキスト:マタイの福音書 6 章 1~6 節

高森基信師

 ユダヤ教の教えの中で、善行を行うこと(施し)、祈ること、断食をすることはとても重きを置かれていました。そして、ユダヤ教の指導者と呼ばれている人たち、パリサイ人や律法学者たちはそれを行うことで自分自身を正しいもの、偉大なものと見せていたのです。しかし、イエス様は「人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい」(6:1)と言われました。また、彼らを「偽善者」として、すでにこの世において報いを受けていると語られたのです。しかし、この箇所は「人前で善行しないように」と教えているのではありません。私たちが何に対して心を向け、それを行っているのか、「天の報いを求めているか?」とその動機を探られているのです。人の目を気にしていると、日本政治の問題のように「忖度」に走ったり、保身に走ったりしてしまうように、クリスチャン生活の中においても、人の目を気にしてしまい、正しい信仰の歩みをすることができなくなるからです。
〇隠れたところで祈る(6:6)
 まず、なぜ祈らなければならないのでしょうか?それは神様が「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。」(イザヤ55:6)と私たちとの関係を求めておられるからです。また、「隠れたところで祈る」とは、全知全能なる神様である方が、「家政婦は見た」的にこっそり見ているというのではなく、神様と一対一になれる場所で祈るということをあらわしています。人は環境に惑わされやすいものです。人前で祈るとなるとカッコつけてしまったりもします。神様と一対一で心を注ぎ出して祈るときに、主は私たちを導き、力を与えて下さるのです。イエス様もそのようにされていました。「イエスは祈るために一人で山に登られた」(マタイ 14:23)。たくさんの群衆の相手をして疲れていたでしょう。しかし、神様と隠れたところでの交わりを求め、体を押して山に登られたのです。「大切なことはたいてい面倒くさい」とアニメ界の巨匠、宮崎駿氏が言っていました。もしかすると、隠れたところで、一人時間をとり、場所をつくることは面倒くさいことかもしれません。しかし、このことが人間にとって最も重要なことなのです。エデンの園において、それは当たり前のことでした。罪を犯した時でさえ、神様は犯した罪のゆえに殺すことをせずに、アダムの名を呼ばれたのです。
〇宣教の働きへとつながる
 「隠れたところで祈る」ことで、主は宣教の働きを進めてくださいます。「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ 9:38)私たちが主の前に静まり、神を知るときにこそ、神様の栄光が国々の間であがめられるようになるのです。
 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩篇 46:10 口語訳)

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