主のために捧げる者は、必ず報いを受け取ることが出来る

富高美和師

「~一人ひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決められたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださるのです。~」

(第二コリント人への手紙9:6~8)

    
 イエス様によって救われた私たちは、沢山の捧げもの(賛美、祈り、献金、奉仕、時間、労力など)をすることが出来ます。「捧げもの」は礼拝の一部であり、また天において喜ばれるものです。種を蒔けば、必ず実がみのり、収穫が出来るように(ガラテヤ6:7、8)主に捧げる者は決して忘れられることなく、現実的にその報いを受けることが出来るのです。
 イエス様は、「捧げるならば受ける」という天の御国の法則をイエス様を求めて来る人々に教えられました。ある青年には(マルコ10:17~22)、「全財産を売り払い、貧しい人に与えなさい(貧しい人への施しは主の御心であり、主への捧げものと同じ)。そうすればあなたは天に宝を持つことになる。」と言われました。しかし、この青年は「捧げることは、失うこと」と思い、悲しんで去っていきました。彼は立派に律法を守っていた人でした。しかし、イエス様は見せかけの「儀式」ではなく、本当に「主を愛する心」が欲しかったのです。しかし、この青年は主ではなく「お金」を愛していたことが明らかにされました。一方、ザアカイはどうでしたでしょう。彼は人々から「罪人」呼ばわりされるほど、罪にまみれた生活をしていました。しかし、イエス様に出会い、すべてが変わりました。イエス様を受け入れ、神の国の福音を聞いた時、「私は財産の半分を貧しい人たちに施し、騙し取ったものがあれば四倍にしてかえします。」と救いの喜びに満ちて宣言したのです。彼は、今まで自分のために財産を増やしてきました。しかし、この罪深い者を救われるために、どんなに父なる神が犠牲を払われたかを知った時、もうすべてを捧げずにはおられなかったのです。これが新約に生きる私たちの姿勢ではないでしょうか。神様の戒めによると、貧しい者に与えるものは三年に一度、その年の収穫分の十分の一です。しかし、ザアカイは財産の半分を与えると言っています。イエス様がご自分を捧げようとしておられるのに、十分の一では足りない、十分の二でも足りない、と考ました。その喜ぶ姿を見て、イエス様は「今日、救いがこの家に来ました。」と言われたのです。主はいつも「主を愛する心」に目を留められるお方です。
 アブラハムに対して、愛するイサクを捧げるように命じました。それはアブラハムのうちに「主を愛する心」があるかを確かめるためでした。アブラハムは「捧げる」姿勢によってはっきりと「主を愛する心」を示し、神様に喜ばれました。マグダラのマリヤは、7つの悪霊から解放され、イエス様に最後まで自分自身を捧げた人物です。イエス様が十字架にかかられた時も、弟子たちが逃げて行ったにも関わらず、最後まで献身的に仕えました。ですから、彼女の「主を愛する心」が喜ばれ、イエス様が復活した際は、一番初めにマグダラのマリヤに現れて下さいました。「捧げもの(主を愛する心)」を自ら進んで捧げる者は、祝福されます。何故なら、主は溢れるばかりの恵みを注ぐことの出来るお方。天に用意されている宝は、私たちの想像を越えるものです。その宝を、主は与えたいと願っておられるのです。「捧げる」ことは「受ける」ことです。

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