「時」を主に委ね、主と共に生きる

富高美和師

「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある~」(伝道者の書3:1~11)
 本当の「不幸」とは、試練に会うことや苦しみに会うことではなく、「試練の時、苦しい時に主が共におられないこと」です。そして本当の幸せは、どんな時も、永遠に主が共にいて下さることです。
 イスラエルの王であり、栄華を極めたソロモンは全てを経験した上で「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書 12:13)と晩年に語っています。ソロモンには知恵が与えられ、権威、地位、財力、すべてが彼のものであり、思う通りに動かすことが出来ました。しかし、彼には「時」を動かす力はありませんでした。「時」は神様のみに権威があり、そして神様の「時」は完璧で美しい。彼は「神のなさることはすべて時にかなって美しい」と認めています。
 天の下(神様の世界)のすべての営みには時があります。エジプトの地でイスラエルの民が奴隷であった 430 年間、イスラエルが約束の地に向っ
て荒野を旅する 40 年間、バビロン捕囚 70 年間(エレミヤの預言 29:10)、すべて神様が「時」を定めておられます。私たちは、この地である程度の時間を自由に使うことが許されています。しかし、こと「神様の御計画」においては神様の決められている「時」の中で、私たちは生かされているのです。
 神様は、人類の救いのための「時」も備えておられました。イエス様がこの地に来られる時、イエス様が宣教を開始される時、十字架にかかられる時(ヨハネの福音書 17:1)、復活する時、天に帰られる時、聖霊が下る時、そして今生きる私たちに重要な「イエス様が再び来られる時(黙示録22:20)」です。神様は、一人も滅びることのないようにと、忍耐してこの時を待っておられます(第二ペテロ 3:8~13)
 また、私たちはこの地上で共通して経験する時があります。それは「荒野の時」です。これは、信仰者だから荒野は体験しない、というものでは
ありません。エジプトから脱出した民が、荒野を経験しましたが、悔い改める必要がある人だけではなく、揺るがない信仰を持っていたヨシュアとカレブも皆と同じように荒野を経験しました。時に水がなく、食べ物がなく、敵が襲ってきました。神様がエジプトでの 430 年間、荒野の 40 年間、捕囚の 70 年間を意味をもって定めておられたのは、信仰のある者はますます成長し、信仰のない者には、主に目を向け主に立ち返るための期間として設けたものです。(エレミヤ 29:10~24)。荒野での問題は、「道がない」ことです。私たちは荒野での試練や苦しみにあった時には、必死にどうにかして自分で道を捜そうとしますが、神様の御心はイザヤ 40:3~8 にあるように、主が道であることを知ることです。道がないように思う時、私たちが自分の弱さを知り、主を見上げることは大切なことです。荒野で民が叫んだ時、主はいつも聞いて下さいました。「時」を定めておられるのは主です。私たちがどんな時も主を見上げて聖霊様と共に歩むなら、必ずゴールに向かって力強く真理の道を歩むことが出来るのです。(ローマ 8:28)

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