「まことの自由」

高森基信

テキスト:ガラテヤ人への手紙 5 章 1~17 節

「表現の自由」「職業選択の自由」など、私たちは「自由」というものが大切であると感じています。しかし、この世の与える自由が正しい自由なのかは、暴力や性的な表現を「表現の自由」として訴える人たちがいるという現実を見ても、本来は正しい権利を主張するためのものでも、自分の欲望のために「自由」という言葉を使うこともできるのがこの世の中です。
 ガラテヤ人への手紙は、信仰によって救われる「信仰義認」よりも割礼などの律法を行なうユダヤ主義的なクリスチャンが増えてきた中で、「再び奴隷のくびき」を負わないようにと、律法から自由にされたことを強調しました。私たちはキリストによって「代価を払って買い取られた」(Ⅰコリ 6:20)者であり、この世の罪や、律法主義のような行いに対して死に、キリストのいのちによみがえらされているのだということを手紙によって教会に対し再三にわたり語っているのです。ですから、「自由」とはこの世の欲望や価値観から解放され、十字架によって私たちのために代価を払ってくださったキリストの愛に生きる生き方なのです。
 肉の欲望を満たさない生き方を求めましょう。「肉の望むことは御霊に逆らい」とあるように、この世の「自由」は自己中心的で自分の欲望を満たすことが目的になってしまいます。しかし、私たちは「聖霊の宮」であることを知らなければなりません。キリストの体の一部であり、何を見、何を聞き、何と交わるかを選択しなければならないのです。その時に肉の欲が勝つのならばそれは「自由」ではないのです。「聖霊の宮」としての「自由」は、買い取られたものとして、正しい選択をし、神の栄光を現す自由を持つのです(Ⅰコリ 6:20)。
 「すべてのことが許されているが、どんなことにも支配されない」(Ⅰコリ 6:12)とパウロは述べています。真の自由とは「この世の物に支配されない」自由なのです。そのためには「御霊によって歩む」(コロ 5:16)ことが大切になってきます。御霊に歩むこと、肉に歩むことは対立しており、私たちが肉に歩むなら、願っていることができなくなるのです。(コロ 5:17)。
 ステパノ(使徒 6:5~7:60)は「まことの自由」を持っている人でした。迫害され、殺そうとする人々を前にして「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んだのです。この叫びはイエス様と同じ思いであり、言葉でした。「父よ、彼らを赦してください」と十字架で言われたイエス様の心と同じでした。初代教会のクリスチャンたちも同じ自由を知っていました。「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(使徒 8:4)のです。迫害の中にあって、散らされ追われる中にあって恐れることなく福音を宣べ伝える「自由」を持っていたのです。
 私たちは「まことの自由」を持つ者となりましょう。そして、愛を持って互いに仕え合う者となりましょう。そのために自由が与えられ、そこに神様の栄光が現われるからです(ガラテヤ 5:13)。

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