「弱い時こそ強い」

高森基信師

テキスト:第二コリント人への手紙12章1~10節
 パウロはこのところで、ある人(自分自身)が第三の天にまで引き上げられ、パラダイスで人間が語ることを許されていない言葉を聞いたと言っています。そして、その啓示のすばらしさに高慢になることのないように、神様はパウロに一つのトゲを与えたというのです。しかし、パウロはそのトゲ(弱さ)を誇ると語っています。そのトゲが何であったかは詳しく書かれていませんが、「目が弱かった」とも言われていますし、もしかすると環境や精神的な部分であったのかもしれません。また、驚くべきことにその弱さを「サタンの使い」と言っているのです。
 私は神学校に入る前に「あなたは若い世代のために用いられます。」という預言のことばを、ある集会に招かれていた先生にしていただいたことがあります。しかし、若い世代への宣教というのは、私の苦手とすることで、自分自身も若く、弱く、その言葉に対して答えることはできないと思っていました。しかし、その10年後、宮城の地で若者のためのミニストリーを、神様に押し出されるようにして始めることができました。自分は弱かったのですが、神様が出会いを与えてくださったり、その働きが始めやすいように、教団教派を超えた牧師のネットワークを備えて下さっていました。そして、今回の「開拓伝道」についても、私は弱さを覚えるものでした。三年前の預言でも「今の状態を保ちたい」という弱さを指摘され、神様がこんな私を押し出してくださったと感謝です。弱いからこそ主を誇ることができると思えるからです。
 また、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」(12:9)と語られるように、人間の常識と反する「弱いのに強い」ということが、神様が共にいて、その御力を表わしてくださるので成立するのです。たとえその弱さが「サタンの使い」であったとしても、神様はそのことによって私たちをへり下らせ、神様だけを誇るようにされるのです。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)と書いてあるとおりになるためです。
 私たちは神様の御心を行うことに、何をすればいいのだろうと迷います。しかし、たくさんの選択肢があるわけではありません。主を誇りとし、イエス様が語られた、「福音を伝える」(マルコ16:15)、「神を愛し、人を愛する」(マタイ22:37~39)ことです。それを実行しようとするときに私は弱さを覚えるかもしれません。しかし、その時こそ神様が私たちを通して、想像をはるかに超えた神様の栄光を現してくださる時なのです。

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