ここに愛がある

富高美和師

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)
 自分が愛されていると感じる時、私たちは安らぎを感じます。反対に、「もしかして、愛されてないかも?大事にされてないかも?」と感じる時、大きな不安となるのです。だから、人は愛されたくて一生懸命です。
 何故、愛されないと不安になるのでしょうか。
それは、創世記までさかのぼると分かります。人間は、神様に愛されるために造られました。エデンの園では神様の愛があふれ、アダムもエバもいつも安らぎと喜びの中にありました。しかし、サタンが「疑いの心」を入れると(創世記3章)、彼らは父なる神様の愛を疑い、背を向けてしまったのです。愛されるために生まれた者が、愛されることを拒絶した時、人は満足を得られないようになりました。それが今の世界です。何かむなしい、その満たされない心をどうにかしようと、お金を得、地位を得、恋人を得て、努力するのですが、何をやっても満たされない、そして不安が襲って来るのです。それはそうです。何故なら、神様の愛でしが人間の心を満たすことの出来るものはないからです。
 「神は愛です。」この事実を信じ続けることは大事なことです。時に、何か問題があったり、試練を通される時、「本当に神様は愛なの?私たちを愛してくれてるの?」と疑いたくなる時もあります。
 ダビデの息子であるアブサロムは、「父の愛」を疑いました。それはあることがきっかけでした。妹であるタマルが異母兄弟であるアムノンに辱められ、アブサロムは自分のことのように心を痛めました。父であるダビデが何かアクションを起こしてくれるだろうと待っていましたが、何もしてくれません。二年後、復讐にかられたアブサロムは、アムノンを殺しました。その時ダビデは、アブサロムを遠くに追いやり、関係を断ったも同然の態度を示しました。アブサロムは「父に愛されていない、大切にされていない」と孤独に陥ってしまいました。(第二サムエル18:18)
その不安が反発となり、反逆となり、父を殺したいと思うまでになったのです。結果、アブサロムは殺されてしまいますが、本当にダビデは彼のことを愛していなかったのでしょうか。いいえ、ダビデはアブサロムが死んだと聞いた時、「我が息子アブサロム。私があなたの代わりに死ねば良かったのに。」と大声で泣き続けたのです。もし、アブサロムが「父の愛」を信じていたら、結果はどうなっていたか分かりません。
 天の父なる神様の愛は、ご自分を犠牲にしてまでも(ピリピ2:6~11)愛して下さった永遠の愛です。イエス様は「あなたを捨てて孤児にはしない」(ヨハネの福音書14:14)と言われます。信じましょう

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