「赦す」ことと「祈り」(マタイの福音書18章19~35節)

「まことに、あなたがたにもう一度告げます。、もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイの福音書18:19~35)
 この御言葉にあるように、天のお父様が祈りをかなえて下さるのには、条件があります。それは「心を一つにする」ということです。
イエス様の御名によって、互いの関係の中に「一致」があり、「親しい交わり」がある所に神様はご自身の栄光を現して下さいます。
 人の心には「欲」があり、その欲が人間関係の中に争いを引き起こし、「赦さない心」が生まれます。そこには「一致」がないので、神様の栄光はそこでは現されません。
 そこで、ペテロは考え、イエス様に尋ねました。「兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
「七度」赦す、ということはペテロにとっては最高の寛容を示した数字でした。しかし、同時に人間の限界も「七度」だということが分かります。イエス様はかつて弟子達に祈り方を教えられました。「天にいます私たちの父よ。~私たちの負いめをお赦し下さい。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。~」(マタイ6:9~13)イエス様は、ペテロの問いに対し、「七度を七十倍するまで」と言われました。つまり、それは人間の力では出来ないことであることを示されたのです。
 イエス様はたとえを話されました。『王は、そのしもべたちと精算をしたいと思った。まず一万タラントの借りのあるしもべに返済を迫り、自分の持ち物をすべて売り払って返済するよう命じた。しかし、このしもべがひれ伏して赦しを求めたので、可哀相に思い、彼を赦し、借金をすべて免除してやった。ところがそのしもべは、出て行くと、仲間で彼から百デナリの借りのある者に出会った。その者はひれ伏して赦してくれるよう彼に願ったが、赦さず、借金を返すまで牢に投げ入れた。それを聞いた王様は怒って、借金を全部返すまで彼を獄吏に引き渡した。』そしてこう言われたのです。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」一万タラント赦された者は、自分が多くの負債を赦された者であるにも関わらず、仲間の少しの負債を赦すことをしませんでした。そこに主人の怒りが下ったのです。
 このたとえの「負債」は私たちの「罪」を示しています。私たちはイエス様の十字架のあがないによって、自分ではどうすることも出来ないほどの大きな負債を免除していただきました。ですから、イエス様が赦して下さったように、そのように私たちも人々にしていくのです。「赦さない」ことは、「赦されない」ことにつながり、多くの恵みを失うことになります。「赦す」ことは、「祈り」と密接に関係するのです。悔い改める時に、神様が聖い霊を与えて下さり、愛と赦しがあふれ、一致が生まれてきます。そこに神様が豊かに臨在され、祈りを聞いて下さるのです。主によって、心を一つにしていきましょう。

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