イエス様の愛を信じる(ヨハネ11:1~4)

イエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロと親しく(ルカ10:38)、彼等をとても愛していました。そして彼等も、自分たちはイエス様に愛されていると知っていました。
 ある日、イエス様のもとに手紙が届きます。そこには、「主よ。ご覧下さい。あなたが愛しておられる者が病気です。」と書かれてありました。マルタもマリヤも、ラザロが病気であるということを知ったら、イエス様は自分たちのところへ飛んで来てくれるだろうと考えました。しかし、彼女たちの意に反して、イエス様がラザロのもとに来たのは、ラザロが死んでから4日経ったあとでした。
 ここで注目したいのは、マルタたちが「愛されている」(ヨハネ11:3)と思ってた愛と、イエス様が実際に彼等を愛していた愛(ヨハネ11:5)とは愛の内容が違ったということです。マルタとマリヤは、イエス様は自分たちのことを「兄弟、友人」のように愛していると思っていましたが、イエス様の愛は、そのような枠を越えて「無償の愛、永遠の愛、魂を愛する愛」で愛していました。このスケールの違いに、彼女たちはイエス様の行動が理解できなくなりました。
 イエス様は、彼等を愛していたので、ラザロが病気であると聞いた時も「この死は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためだ」と言われ、おられたところになお2日とどまられました。
 私たちは今日、イエス様の愛を100%信じるということを学びたいのです。たとえ、イエス様の言動が私たちの思いと違ったとしても…。マルタとマリヤは、イエス様の言動に困惑しました。
イエス様がラザロのところに来たときには、マルタとマリヤは「今頃来ても、もう遅い。」と感じました。そして「何故、生きている時に、来て下さらなかったのだろう?」とイエス様に訴えかけました。
イエス様は、マルタに対し、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか?」と問いました。マルタは「信じます。」と言ったものの、その信じる心は100%ではありませんでした。何故なら、イエス様が、「墓の石を取りのけなさい」と言ったとき、それを止めようとしたからです。「信じる」とは「その人に全てを委ねる」ということです。
「信じる」事を妨げるのは「恐れ(不信仰)」です。私たちはこの「恐れ」に気をつけなければなりません。マルタは失意の中に居続け、マリヤは泣き続けました。何故なら、彼女たちの心には「イエス様は、本当に私たちのことを愛しておられるのだろうか?」という恐れがあったからです。イエス様は、私たちに「その石(恐れ)を取りのけなさい!」と言われ、「もし信じるなら、あなたは神の栄光を見ると言ったではないですか!」と霊の憤りを涙ながらに語られるのです。
 イエス様が「ラザロよ出てきなさい!」と言うとラザロはよみがえり、その業を見た群衆はイエス様を神の子と信じ、救いを得ました。 この時にようやく、「イエス様はこの3兄弟だけではなく、この群衆をも愛しておられた」ことに気づくのです。この方法でなければ、イエス様の愛は群衆まで届きませんでした。イエス様の永遠の愛には、100%信じる価値があるのです!恐れず、信じ続けましょう!!

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