「何はともあれ」(ルカ12:22~34)

 もし、だれかがあなたに向かって、「信仰とは何処にありますか?」と言われなら、どう答えるでしょうか?
 この箇所で、イエス様はさまざまなことを心配する弟子達に向かってこう言われます。「ああ、信仰の薄い人たち。」
 イエス様は、おびただしい群衆の中でも、特にイエス様の近くにいて、これからイエス様に従っていこうと決心している人たち(弟子達を含む)に対して、こう言われています。

指摘①「パリサイ人のパン種に注意しなさい。それは彼等の偽善のことです。」(12:1)
※偽善とは、二重生活のこと。教会では信仰的で神中心であるが、家では自己中心。偽善は、私たちの人生に悪い影響を及ぼす。私たちは、透明感のある生き方をする。

指摘②「どんな貪欲にも注意して警戒しなさい。」(12:15)
※自分は持っているのに、他の人のものを欲しがる状態。 欲しがる心は、罪を生み出す。
私たちは、財産にいのちがあるのではないことを知る。
「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(例え話→12:16~21)
※本当に大切なものは、物ではない。

指摘③「いのちのことで心配してはならない。」(12:22)
※何を飲むか、何を飲むか心配しないように。何故なら、いのちは食べ物より大切である。
どちらが優先順位が高いかを考える。心配しても何もすることの出来ない自分を知る。神様が私たちを造られたので、神様が養って下さるという信頼を持つ必要がる。

 イエス様は、あなたに強い信仰を問われているわけではありません。ただ、「あなたの信仰は何処にあるのですか?」と問われているのです。私たちは、しっかりと覚えていく必要がります。信仰は私たちの内から生まれてくるものではなく、私たちが信仰を努力で強めていくのではなく、信仰は神様から与えられ、神様が強めて下さるものだということです。「信仰が現れる以前には~」(ガラテヤ3:23~25) イエス様は、求めるものには惜しみなく「信仰」を与えて下さいます。しかし、私たちの内にその信仰を受け取る場所、器、領域が狭いことをイエス様は残念がっておられるのです。
 心配性の私たちに、イエス様は処方箋を与えて下さっています。それは「何はともあれ、あなたがたは神の国を求めなさい。」(12:31)ということばです。「神の国」は「神様の支配」を表します。
 私たちの人生の中で心配することがあっても、私たちはまず「何はともあれ」神様の支配の中に帰る必要があるのです。私たちが神様の支配を求める時、神様の導きを受けます。すると、神様のご計画が成し遂げられ、私たちは神様の栄光を現す者として用いられるのです。
 神様の約束は「そうすれば、これらの物はすべて与えられます」にあります。ですから、私たちは恐れることはありません。私たちは、神の国の実現のために「何はともあれ」まず、信仰を求めましょう。
(拡大宣教学院学院長 永井信義師)

コメントを残す

コメントを投稿するにはログインしてください。