赦された者(エペソ2:1~10)

 私たちは、以前は罪過と罪との中に死んでいた者でした。(2:1)
「罪過」とは「あやまち」のことです。「あの時こんなことをしなければ、こんなことを言わなければ・・・。」という失敗はだれでもあり、「あやまち」を思い出すたびに良心が痛み苦しむのです。
 ある人にとっては、その痛みによって人生が狂わされることもあります。何故なら、人間の力ではどうすることも出来ないからです。 
 また「罪」とは「神様を信じないこと、神様の御心を行わないこと」を言います。「罪」は原語で見ると「ハマルテイア」といい、「的はずれ」という意味があります。それは、神様が目的をもって人間を造られたのにもかかわらず、その目的を忘れ、神様の用意された道からそれて自己中心な歩みをすることです。
 しかし、その「罪過」や「罪」を赦して下さる方がおられます。
それがイエス・キリストです。イエス様は、十字架の死によって、私たちの「罪」「罪過」の罰を身代わりとなって受けて下さいました。
そのことを信じる時、私たちのすべての「罪過」「罪」は赦され、神様の目的にそった歩みをすることが出来るのです。
 旧約の時代に、エノクという人物がいました。彼は、神様と共に歩み、その歩みは主に喜ばれ、死を見ることなく天に上げられました。 彼は良心(神様の御心にそって歩む)に従って生きた人でした。
 ノアの時代も神様に与えられた良心によって人々は生きていました。しかし、彼の生きていた時代は悪がはびこり、良心が麻痺し、人間の心はいつも悪いことだけに傾いていたような、ひどい状態でした。
 神様の御教えを守らないならば、人間はすぐに悪い思いへと落ちていきます。ですから、私たちには「神様の御教え」は必要なのです。
 神様から離れた生活をしている人々、御心が分からないで生活をしている人々の為に、イエス様はこの地上に来て下さいました。
 すべての人の「罪過」と「罪」をイエス様の血潮によって消し去るために。そして新しく生まれた者が、神様の御心を知って人生を歩むことが出来るように。それは、すべて神様のご計画の中にあったことでした。この福音を弟子達は命がけで人々に伝えました。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。~私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。~キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また三日目によみがえられたこと、~」(第一コリント15:1~6)
 私たちは御怒りを受ける存在でした。この世の風潮に流され、私たちの霊は死んだ状態にあったのです。サタンに惑わされていることにも気づかず(偶像礼拝、占い、ねたみ、不従順)良心に痛みを与えてばかりいました。(2:3)そして神様の嫌われる、肉の行い(ガラデヤ5:19~21)をしていたのです。
 しかし、イエス様はこのような人間に救いを与え、サタンの束縛から解放し、神の子としての特権を与えて下さいました。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(2:5)
 私たちは、行いではなく、恵みによって救われたのです。今日も、神様の一方的な愛を深く知り、心から感謝してまいりましょう。

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