礼服を着て

 教会の礼拝は、ある意味「結婚式」だと言えます。イエス様とのお見合いの時、出会いの時と言えばよいでしょうか。
 マタイ福音書の22章には、イエス様はこのようにたとえを話されました。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることが出来ます~。」(1~14)
 ここに婚礼の席に招かれた人たちがいます。しかし、彼等はその招待を気にもかけず、それどころか、王のしもべたちに恥をかかせ殺してしまいました。宴会の食事の用意が出来、何もかも万全に整っていました。しかし、彼等はそれを拒んだのです。これは、救い主イエス・キリストを拒み十字架にかけたユダヤ人を指しています。「準備が整った」ことは、イエス様の救いが「完成した」ことを表します。彼等は、それがどんなに素晴らしいものなのか、理解する力がありませんでした。そして、神様からの救いの招待状を捨てたのです。
 AD70年。ローマの将軍タイトスによって、エルサレム神殿は崩壊しユダヤ人達は離散します。福音は全世界に伝えられ、その受取人のいない招待状は、私たちの所に届きました。 
「宴会の用意は出来ているが、招待しておいた人たちはそれにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者を皆宴会に招きなさい。それでしもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」(マタイ22:9)
 沢山の人が王のもとに招待されました。そこには善人だけではなく、悪人もいたのです。イエス様は言われました。「わたしは正しい人ではなく罪人を招くために来たのです。」と。神様は、すべての人が救われて神の国に入ることを望んでおられるのです。
 しかし、恵みによって招かれてにも関わらず、そこに「礼服」を着ていない人がいたのです。結果、その人は追い出されました。
 教会に招かれる人は「礼服」を着なければなりません。何故なら、礼服を着なければ、神様が用意されている恵み、祝福にあずかることが出来ないからです。この礼服とは「信仰」です。(ヘブル11:6)
 信仰とは何でしょう。私たちはアブラハムの経験からそれを学ぶことが出来ます。アブラハムは、神様に「行け!」と言われたので、行き先も分からないまま、神様のことばに従って、その地を出発しました。また信仰によって約束の子を100歳の時にさずかりました。また、信仰によって「イサクを生け贄として捧げよ」という神様の命令に従いました。彼は最期まで神様に従い通したので、彼は死人の中からイサクを取り戻すことが出来ました。そして、神様の約束通り、イサクによって多くの国民の父となったのです。
 教会では什一返金があります。ある人にとってはそれが大きな犠牲と思えることかもしれません。何故、そのような命令に従わなければならないのか?と思うでしょう。しかし、犠牲と思わず、感謝しつつ信仰に立って捧げるならば、私たちは神様からの祝福を得ることが出来るのです。この時、あなたが「礼服」を着るか、着ないかは私たちが選択するのです。「礼服」を着るなら、王が用意した盛大な宴会の席に着き、十分な恵みにあずかることがでるのです。アーメン。