天の御国(マタイ13:44~53)

 ここでは、畑に隠されていた宝を見つけた人が出てきます。
その人は、大喜びで帰り、自分の持ち物を全部売り払って、その畑を買いました。そこに宝があることを発見したからです。ですから、彼は自分の財産を犠牲にすることを惜しみませんでした。
 天の御国の素晴らしさを知るということは、そのようなものです。この地上の宝よりも勝る天の御国の素晴らしさを知る時、それを得るために払う犠牲は、少しも苦ではないのです。
 また、「素晴らしい値打ちのある真珠」にも例えられています。それを見つけた人は、自分の財産を売り払ってその一つの真珠を手に入れました。天の御国を知るということはこのようなことです。
 聖書を見ていく時、命がけで主に従い通した人々が出てきます。(モーセ、ダビデ、etc)彼等は、自己犠牲を惜しまず、主のために働きました。神様は、彼等と共に歩み、彼等を祝福し、多くの奇跡の業をもって導きました。
 使徒の働きを見ると、弟子達は聖霊に満たされ、命がけで「イエスキリストは主である!」と宣言し、福音を伝えました。彼等は、天の御国の素晴らしさを知っていたので、むち打たれても、牢に入れられても、それを犠牲だとは思いませんでした。むしろ、主の御名によって迫害されることを喜び、共に励まし合い、最期まで主に仕えました。
天の御国は「海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網」にも例えられています。漁師は、網がいっぱいになると岸に引き上げ、「良いもの」は器に入れ「悪いもの」は捨てるという作業を行います。
 この世の終わりには、御使いが「羊」と「山羊」をより分け、「山羊」を火の燃える炉に投げ込みます(マタイ25:32~46)。
ですから、私たちはよくよく注意し、自己中心ではなく、神様の御心を行っているかを吟味し、神の目に正しい歩みをし続ける必要があります。
 イエス様は言われました。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
「古い物」は私たちの常識、理性の世界を指します。そして「新しい物」は霊、信仰の世界を指します。ここでイエス様は、「天の御国を知り、信仰によってこの恵みに入る人は、人間的(常識、理性)世界も霊的世界も自由に取り出すことが出来る。」と言われているのです。
 私たちは、以前は貧しい者でしたが、ある時、教会に宝が隠されていることを知りました。今では、聖書のことばにより、天国を知る学者となったのです。ですから、私たちは「古い物」も「新しい物」も自由に取り出すことが出来るのです。
 教会に来ることを、喜びとし、主に仕えることを楽しみとします。
天の御国に入ることが約束されているので、この世で払う犠牲を苦とは思いません。私たちは、神様の栄光を現すために造られた者ですから。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)