弁護して下さる主 藤井圭子師

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、~もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」(Ⅰヨハネ1:9~2:2)
 ある夜、一つの辛い出来事の為に、私はひどく傷つき悲しみながら帰途に着きました。そして聖書を開いた時にこの御言葉が与えられ、イエス様に対する感謝の心で胸がいっぱいになり、そのまま祈っていると、一つの光景が目に浮かびました。小さい十字架の上にイエス様の姿が見え、そのイエス様から、血が帯のようになって自分の左の胸に流れ込んで来たのです。イエス様と私は血の帯で繋がれました。しばらくして目を開けると、今まで痛み傷ついていた心が嘘のようにすっきりとし癒されていたのです。その時私は気づきました。私に傷口があったからこそ、イエス様の血はそこに流れ込むことが出来たのだということ、またイエス様は、その傷口を癒すために来て下さったのだということ・・・。ですから、傷口や破れ、罪のうめき、があることは本当は感謝すべきことなのです。
 私たちは、傷を受けた時になんとか自分で直そうとして傷をふさぎますが、実際は内側に汚い菌をためこみ、傷を化膿させる結果になることが多くあります。しかし、その傷をイエス様に差し出すなら、イエス様はその傷を優しく洗い清め、癒して下さいます。イエス様は、私たちの内に住んでいて下さいます。苦しみの中で祈ることが出来ない時も、私たちの為に祈ってとりなして下さるのです。(ローマ8:26)私たちは失望する必要はありません。神様は私たちを必ず助けて下さり、弁護して下さる方だからです。「私たちには、御父の前で弁護して下さる方がいます。義なるイエス・キリストです。」(Ⅰヨハネ:1)
 マルコ5章には「長血の女」の話が出てきます。当時の社会では、出血している女は「汚れている」とされ、人前に出ることは許されませんでした。しかし、信仰によってイエス様の着物に触ると、彼女の病気は癒されました。イエス様は、誰が着物に触ったかを知ろうとされました。何故なら、女性の痛む所にイエス様の力が電流のように流れていったのを感じたからです。女とイエス様はここでつながりました。イエス様は、あえて彼女の口から真実を聞き出し、この女性の信仰とその告白を喜ばれました。イエス様は、常に真実な告白を求めておられ、信じる者と人格的に交わることを願っておられます。私たちが明確に要求するなら、神様は必ず祈りに答えて下さる方です。神様は私たちに問われます。「わたしに何をしてほしいのか?」と。
 私たちが信仰を持って主に差し出すものは、「私たちの傷、破れ、罪」です。それに対し、神様が私たちに与えて下さるものは「赦し、癒し、平安、きよさ」であります。 
 神様は、生きておられるお方です。そして賛美の中で私たちと出会って下さり、人格的な交わりをして下さいます。その交わりとは、私たちに信仰を与え、慰めを与え、励ましを与えて下さるものです。
 私たちは、イエス様の十字架で流された血、そこにある深い愛に感謝しましょう。イエス様は、私たちの素晴らしい弁護者です。