イエスにとどまる(ヨハネ15:1~13)

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ 15:5 )

 1~15節の中に、15回「とどまる」という言葉が出てきます。 かつては、罪のために、父なる神様に喜ばれない野生のぶどうの木のような存在でした。
しかし、イエス様の十字架の贖いにより、真のぶどうの木であるイエス様に接ぎ木され、実を結ぶことのできる、ぶどうの木につながれた枝となったのです。
「とどまる」とはその信仰に立つことです。
実を結ぶためには、父なる神は、手入れをされます。実を結ばない古い枝は切り落とし、もっと実を結ばせようとされるのです。
「切り落とす」とは、試練を通してです。人生の試練は、誰にも必ずやってくるものです。(Ⅱテモテ3:14)
 「信教の自由」を憲法で保障されている今日の日本では、クリスチャンに対する迫害は、見られませんが、ローマ帝国の支配の中にあった当時のクリスチャンは、キリストを救い主と受け入れる事は、命がけでした。
 ですから、信仰のために迫害に合い、命を落とす事も覚悟の上でした。ある人々は、火あぶりの刑に、また獣のえさに、ある人々は、拷問により獄死しましたが、これらの刑も覚悟の上で信仰を守り通したのです。
 そのような状況の中で、1歩も信仰の譲歩をすることなく、主に「とどまり」その結果は、彼らの祈りは天に届き、迫害の中にローマ帝国はキリスト教を公認するに至ったのです。(AD313ミラノの勅令により)
「とどまる」なら「何でも求めるものは、与えると約束されている」通りです。それは、私たちにも与えると約束されているのです。(7節)
 また、「とどまる」とは、「戒めを守ること」(10節)、「互いに愛し合うこと」(12節)、「友のために命を捨てる愛」です。それは、十字架を負う事です。(マタイ16:24)
 そこには、神の国の喜びがあるのです。
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」(ローマ14:17)
 キリストにしっかりと、「とどまる」とき、そこにあなたを通して神の栄光が現される(実を結ぶ)のです。(8節)