すべてを主に委ねて(チャペル延岡牧師:田崎敏明師)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)
 聖書には、クリスチャンになれば心配事はすべてなくなる、とは書いていません。「心配」は、愛情の一つとも言えるでしょう。愛する人がいなくなると心配し、病気になると心配します。私たちは、「心配すること」、また「心配されること」でお互いの愛情を確認します。
 「心配」「配慮」「相手を思う気持ち」これらの感情は、相手を敬い、互いに大切にし合うという、すばらしいものではないでしょうか。
 ペテロはこう言っています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)
 私たちは、心配します。それは決して悪いことではありません。しかしその時に、その心配を神様にお委ねするという特権に預かっていることを忘れてはなりません。私たちがその心配を神様の前に素直にさらけ出して行く時、神様が私たちのことを心配して下さるのです。
 イエス様は、私たちのことを「しもべ」ではなく、「友」と呼んで下さいます。
 サンリオ社から発行されている本に「神様への手紙」があります。「神様、あなたは自分が神様だと、いつ分かったのですか?」「ぼくや約束を守ったけれど、神様はいつ約束をかなえて下さるのですか?」そこには、こどもの素直な言葉が綴られています。でも、それが彼らの神様に対する祈りなのです。神様は、このような本当に素直な祈りを求めておられるのではないのではないでしょうか。
 こちらは、親しくしたいと願っているのに、相手に「距離」をおかれた時、とても寂しい思いをします。神様は、私たちに対しそのように思われることがあります。神様は私たちを愛しておられます。私たちはそれを決して忘れてはなりません。
神様は、私たちを愛しておられるので、どのような小さな私たちの祈りにも耳を傾けて下さいます。私たちの心の思い煩いを、すべて主に祈ること。これが神様に委ねるということです。
 ペテロは、イエス様を裏切った人物です。あれほどイエス様を慕い、忠誠を誓ったのに、十字架にかかられた途端、彼の態度は一変しイエス様をのろう者となりました。イエス様が死んでそのままだったら、ペテロの裏切りは彼自身を苦しめたことでしょう。しかし、イエス様が死んで三日目によみがえって下さったのです。それによって彼に回心の時が与えられました。ここに、イエス様の愛と赦しがありました。イエス様は、ペテロの弱さを知り尽くしていました。
 私たちの弱さも、イエス様はすべてご存じです。
 38年間、病におかされている人がいました。彼は奇跡の池であるベテスダの池になかなか飛び込めない理由を、イエス様に述べました。 一見、愚痴と思えるような発言でしたが、イエス様は彼をあわれみ、彼の病気を癒されました。彼の弱さを知っていたからです。
 どうぞ、すべての思い煩いを主に委ねて下さい。主があなたを心配されます。38年間病の男がイエス様のことばに従った時に癒されました。私たちもすべてを主に委ね、従うなら、祝福されるのです。