新しい歩み(東北中央教会牧師 永井信義師)

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。~私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1~4)
 一人の(アダム)の不従順により、この世に罪が入り、一人の従順(イエス・キリスト)によって多くの違反も義とみとめられました。これは神様の恵みであり、これを信じた者には永遠のいのちが与えられます。(5:15~20)
 律法は違反者に罪を示します。
聖書は、罪の増すところに恵みも満ちあふれ、義の賜物が支配し永遠の命が与えられる、と言います。
 それでは、「罪を犯しても罪が赦されるなら、罪を犯してもかまわないのではないか。」と言う人がいます。(6:1)
しかし、ローマ人への手紙の著者は言います。「そんなことは絶対にない!」と。
 何故ならば、「キリスト・イエスを信じた者は、罪に対して死んで聖められている者」。ですから、罪に死んだ者が「罪を犯そう」など考えないのです。
 私たちが、「イエスは主です。」(マタイ16:16)と告白したとき、それは、神の啓示によるもので、新しく生まれ変わったのです。
 人は過ちに陥りやすいものです。しかし、神様は、どんな人であっても、ありのままのあなたを赦し、新しくして神の子どもとして受け入れてくださる方です。
 放蕩息子の例えの通りです。弟息子は、父からもらった財産を、放蕩に明け暮れ使い果たし、落ちぶれて、食べるものにも窮し、豚の餌を口にしようとしたとき我に返り、悔い改めて父の家に帰る決心をしました。(ルカ15:11~)
 ぼろぼろの服に、やせ細った身体、その身体からは悪臭を漂わす弟息子。しかし、帰ってくる弟息子を父は見つけ、まだ家までは遠かったにもかかわらず、走ってきて彼を抱きしめ、新しい服を着せ、指輪をはめさせ、放蕩して全ての財産をものを失ったにもかかわらず息子として受け入れてくれたのです。
 これが神の愛です。だから、ありのままでいいのです。イエス様を信じたあなたは、新しくされたのです。(Ⅱコリント5:17)
 それは、キリストの死にあずかるバプテスマによって古きに死んで新しくされ新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)
その新しい歩みとは、十字架を負って主イエスに従う生き方です。
(マタイ16:24、ルカ9:23)