起きよ光を放て!(富高美和伝道師)

「~イエスは言われた。『わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』~そこで、彼は行って、洗った。すると見えるようになって、帰って行った。~」(ヨハネ9章)
 一人の盲人が、イエス様によって見い出され、目が開かれました。しかし、彼は肉体的に目が開かれただけではなく、癒された時から霊の目も開かれ、そして霊的眠りから目覚めます。
 私たちも、以前は暗闇の世界におり、生きる目的も見い出せずに悶々とした生活を送っていました。しかし、イエス様によって救われ、私たちの心は真の光に照らされました。天国というゴールを目指し、光の内を歩む人生へと変えられたのです。
 この終わりの時代に、神様は言われます。「起きよ!そして光を放て!」と。私たちは、霊的眠りから目覚め、世の人々に光を放って行く必要があります。何故なら、イエス様が来られる日が近いからです。
 この盲人の癒しの場面以降には、霊の目が開かれていない人(霊的盲目)と、霊の目が開かれている人との対比が描かれています。
 霊的盲目とは、神様の御心やご計画を悟ることの出来ない人です。まさにパリサイ人は、霊的盲目という病気に冒されていました。彼らは自分たちは見えると考えていました。でも実際は、自己中心的傲慢の故に自ら目を閉ざしていたのです。彼らは、神様の御心を悟ることが出来ませんでした。その最大の失敗が、神の御子であるイエス様を救い主として受け入れなかったことです。それどころか、この場面ではイエス様のことを「罪人」扱いしているのです。
 一方、盲人であった人は、まず、目の癒しを通してイエス様の名前を知ります。「彼は答えた。『イエスという方が』~」(9:11)、しかし、パリサイ人と問答をしている内に霊の目が開かれていきます。「あの方は預言者です。」と。またイエス様のことを知らないというパリサイ人に対して、「聖書に精通していると自負しながら、あの方を知らないのですか?もしあの方が神から出ておられないのでなかったら何も出来ないはずです。」と、彼の霊は更に眠りから覚め始めます。彼は、その発言で会堂から追放されました。しかし、その後のイエス様の行動で私たちは慰められるのです。追放を聞かれたイエス様は、わざわざ彼を捜し、見つけ出されました。神様は、神様に従う者を決して見捨てられません。迫害され、世の中から追放されようとも、最後まで責任を持って下さるのです。イエス様は彼に言われました。「あなたは人となった神を信じますか。」そして彼は言いました。「主よ。私は信じます。」と。彼の心は「預言者」から「主」に変わり、そこで礼拝したのです。それはイエス様が神であることを認めた上での行為でした。彼の霊の目は開かれ、イエスご自身について深く知ることが出来たのです。シロアムの池(遣わされた者)で癒された彼は、池の名の通り、イエス様の証人としてユダヤ人の中に遣われていくことになります。彼は、内に神様の光りを持ちました。そして彼の霊が眠りから覚め、目が開かれることにより、彼自身が光りを放つ者として変えられたのです。イエス様は言われます。「起きよ!光を放て!」
私たちは眠りから目覚めなければなりません。主の日は近いのです!