神様のことば(マタイ5章)

 この個所は、「山上の垂訓」と言われ、イエス様の大切な教えが沢山記されています。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。~まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:22~24)
「しかし、わたしはあなたがたに言います。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫をしたのです。」
「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」(マタイ5:42)・・・
 そして、最後に「だから、あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。」と言われました。
 これらの教えは、自分の力では到底無理なことばかりです。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる。」(マタイ4:4)と言われました。
私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、罪赦され、新しくなりました。新しくされた私たちは、自分の力(世の中のもの、肉的なもの)ではなく、イエス様によって、そのことばを実行することが出来るのです。
 かつてのイスラエルの王で、この世の栄華を極めたソロモンは、こう言っています。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:13、14)
 私たちが、この世で「幸せ」を得たとしても、それは結局一時的な満足に終わり、繰り返しむなしさや不安がやってくるのです。そこに魂の安らぎはありません。
 人間は、神様のことばによって造られました(創世記1章)。
ですから、神様のことばによらなければ、本当の満足を得ることは出来ないのです。
 子供は母親から離れると、不安を覚えます。だれかがおもちゃを与え、不安を紛らさそうとしても、そのおもちゃも一時的なものでしかなく、おもちゃに飽きると、また母親を求めます。その子の母親しか、本当の安心を与えることは出来ないのです。
 私たちもそうです。私たちの心に安らぎを与えられるのは、神様しかいないのです。神様のことばが私たちにとっていのちなのです。
 私たちは、神様の子供です。どんな時(心が貧しい時、悲しい時、)でも神様が共にいて慰めて下さいます。
 私たちは、度々弱さを覚える者で、「完全」な者ではありません。しかし、イエス様を見上げ、信仰を持ってイエス様のことばに従って行くなら、私たちは「完全」なるイエス様に近づくことが出来ます。