イエス・キリストにあって(富高美和伝道師)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5:16~18)
 使徒パウロは、テサロニケの教会に宛てた手紙の締めくくりとしてこのことばを書きましたが、この時はテサロニケの教会にとって一番喜べない、感謝出来ない「苦難の時」でした。
 では何故パウロは、このようなことを言ったのでしょうか?
それは、苦難の時にこそ、喜びを与え、祈りに答え、感謝を与えて下さる主を見上げる、ということを教えるためでした。
 「いつも」喜ぶことは難しいことです。何故なら、私たちを取り巻く環境、人間関係、時代はめまぐるしく変わっていくからです。
 パウロは、イエス・キリストにあって喜びなさい、と言います。つまり、イエス様によって私たちの魂が救われ、天国の道が開かれたことを喜ぶということです。この救いは、永遠に変わることはありません。ですから、どのような状況であっても、私たちは「いつも」喜ぶことが出来るのです。「ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17~20)
 また、「絶えず祈る」とは、神様との個人的関係を強めるということです。会話をすればするほど、相手のことを深く知ることが出来るように、私たちは常に神様とコミュニケーションを取り、私たちを救い出して下さった神様について深く知り、信仰を強めていくのです。
 最後に、イエス・キリストにあって「感謝する」とは、イエス様の十字架で流された血潮、その犠牲を思い感謝することです。
<有名な世界三聖人の話>
 一人の人が泥沼にはまり込んでわめいてました。
もがけばもがくほど、沈んでいくのです。そこに孔子が来ました。
そして、その人にこう言って去っていきました。
「あなたはそんなところに入るべきではなかったのです。」と。
 次に、釈迦が来ました。「あなたはそこに入ってしまったのですから、あきらめるべきですね。」と言って去って行きました。
 その次にキリストがやって来ました。彼は何と言ったと思いますか。彼は何も言いませんでした。彼はづかづかと泥沼の中に入って行って、彼の手を取り「さあ、わたしの手にすがりなさい。」と言って彼を助け出したのです。彼は助かりました。しかし、助けたキリストの姿はどうなったでしょう。聖い姿は無惨にも泥まみれになってしまっていたのです。
 私たちは、イエス様がご自分の犠牲を顧みず、この罪と汚れの世界に飛び込んで下さったことを思う時、感謝せずにはいられません。
 テサロニケの教会は、イエス様がまた再び来られるということに希望をおいていました。彼らは目的を持って生きていたのです。
 神様は、目的を持って私たちをこの地に遣わされました。
 それは、この悪い時代、苦難の時に、福音を宣べ伝えるためです。ですから、私たちは、神様のご計画があると知り、どんな状況の中にあっても、イエス・キリストにあって、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝します。それが神様の望みなのです。