主の祈り

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)

 残飯を捨てる量が世界で一番多い国(人口比)は、日本です。
そんな豊かな生活をしている私たちですから、「日々の糧を与えてください」と祈る人は特別な人でしょう。
 しかし、今から約2000年前のイスラエルでは、貧しい人にとっては、毎日の食事は、一番の心配事だったのかもしれません。
 では、この祈りは、今日の私たちと関係のないことでしょうか。
 私たちは、毎日の食事は当たり前だと思っています。
しかし、私たちは、全ての物は神さまから出ている事を知らなければなりません。
一匹の魚にしても、神の物です。穀物も、果物も、そうです。すべて太陽を昇らせ、雨を降らせ、育てたのは神様です。
 私たちは、漁師、農家の人、また店の人には、お金を払って買います。その値段は手間賃です。しかし、神様には、何のお礼もしないのです。ですから、神様には、「日々の糧を与えてください」と祈り、又、与えられた事には感謝しなければならないのです。
 また、祈るときには、誰かに対して恨み言や、憎しみなど罪を持っていたならば、祈りは神様の前に届かない、ということを覚えておかなくてはなりません。
 「主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1,2)
 ですから、罪を悔い改め、人に対して恨みや憎しみを持っていたなら、その人を赦して、神様の前に出なければならないのです。
そのためには、私たちが、キリストにあって罪赦されて、新しく生まれ変わらなければ、出来ないことです。
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 (ガラテヤ2:20)
  「わたしが罪赦されたものだから、わたしも罪を赦します。」
そこから、祈りが始まるのです。