「新しい天と新しい地とを見た。」(黙示録21章1~5節)

 宮崎の開拓伝道が1972年より始まり、36年の歴史を持つ教会となりました。その間に、24名の聖徒を天に送りました。プログラムに載っている故人の遺影を見ますときに、懐かしい思い出がよみがってきます。
 生まれて、まもなく天に召された赤ちゃんや子供もいます。長寿を全うされたと思う方もいれば、もっと生きていてほしかったと、その死を惜しまれて召された方々もおられます。 生きている私たちも、早かれ遅かれ必ず、死を迎えなければならない運命の基に、生を得ているわけです。
 この世にあっては死は、全ての終わりです、それまで持っていた地位も財も名声も、何の力にもならず、夢も希望も、全ての終わりなのです。そればかりか、死後の事について何の知識もありませんから、不安と恐れをもって死を迎えなければなりません。そして、罪のために地獄に投げ落とされるのです。
 クリスチャンはそうではありません。死は、天国への凱旋です。肉体と言う幕屋から出て、神様が私たちのために備えて下さっている天に移されることです。そこが永遠の安息の地であり主と共に住む永遠の住まいが用意されているところです。
 そこには、「死もなく、涙もなく、悲しみも、叫びも、苦しみもなく、、悲しみの涙おもすっかりぬぐい取って下さる主がおられるところです。」黙示録21:4
これは、クリスチャンが持っている確信なのです。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。それは、イエス様がよみがえりの主だからです。
 「イエス・キリストが、私たちのめために、罪の罰を身代わりとなって十字架で受け、死なれたこと、死んで葬られてこと、3日後によみがえられたこと」によるのです。この罪のために死なれたイエス様を「救い主」と信じる者は誰でも救われるのです。
この世には教祖と呼ばれるような立派な人たちは沢山います。彼らも死後の世界について語りました。「善行に励むように」、「自分を鍛錬するように。」「念仏を唱えるように」とか。それが、極楽(天国)への道であると言ます。しかし、言った本人が死んでしまって、どこえ行ったか 分からないのですから。確信が持てません。でも、キリストはよみがえって生きておられる。ですから、死後の世界に確信をもてるのです。
先に天に召された聖徒達は、老いも若きも共に願っていることは、全ての人が救われる事です。親しい人であればあるだけ、その人が救われることを願っていることでしょう。あなたが礼拝を守り、主のために捧げ、働き、福音を伝えることこそ天における大きな喜びとなるのです。主が備えて下さる「新しい天と新しい地」に 移される時を待ち望む者となりましょう。(召天者合同記念礼拝より)

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