もし、落ちて死ななければ

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。」(ヨハネ12:24)
 神様のことばは、私達人間の常識を越え、そして理屈を覆すものです。5つのパンと2ひきの魚で五千人以上の人々が満腹し、十二の籠に残りがいっぱいあったという出来事、イエス様が水の上を歩かれ、ペテロもイエス様のおことばに従うと水の上を歩くことが出来たこと、それらは、私たちの常識では考えられないことばかりです。しかし、イエス様が全能の神様であることを知るとき、信仰を持って新しい目でそれらを見ることが出来ます。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。」
 私たちは、もし自分に死ななければ、自分だけのために生き、その人生は自分だけのもので、やがて朽ちていくものです。
 しかし、その種が良い地に落ちて、そしてそこから多くの実を結ぶように、もし、私たちが自分に死んで、人生を神様に捧げるならば、人生は、180度変わり、暗闇の世界から多くの魂を救う、素晴らしい働きをすることが出来るのです。
「しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
 神様に従う歩みは、自分の考えや、この世の常識、理屈から解放されることから始まります。
 神であられる方が、人間の姿をとって地上に来られたことや、全人類の罪を背負って十字架にかかられ死なれたこと、3日目に死よりよみがえられたことは、人間的には考えらないことです。
しかし、聖書に書かれてある通りに、これらはすべて事実であり、この信じられないことを信じることによって、私たちは神様のご計画の中で「救い」を得ることが出来るのです。
 「信仰」は、「納得」とは全くかけ離れた世界です。
新約聖書に登場する、百人隊長は、しもべの癒しをイエス様に願いました。イエス様は、その場でしもべが癒されたことを宣言しました。隊長は、しもべが癒された事実を見てはいないけれども、イエス様のおことばを頂ければ、しもべは癒されると確信したのです。イエス様は、彼のその「信仰」を喜ばれました。
 「信仰」は聖霊様の働きによって与えられるものです。これは、神様からの一方的なあわれみです。そして、信仰の目が与えられ、世界を見る時に、神様の愛、神様のご計画をはっきり知ることが出来るのです。
 私たちが、一粒の麦のままではなく、自分に死んで神様のことばに従って行くならば、私たちは多くの奇跡を体験することが出来、また多くの魂を勝ち取っていくことが出来るのです。ハレルヤ!!