父なる神の愛と恵み、そして信仰(ルカ15:1~3、11~32)

 イエス様を信じた人は、誰でも神様より信仰が与えられます。
しかし、「信仰を持っている」だけではいけないのです。私達は、「信仰を行使する」ことによって、信仰の筋力を鍛えていかなければなりません。無から有を呼び出す、全能の神に対する信仰を確立したアブラハムのように、私達は信仰の力をつけていきたいのです。神様の約束は必ず実現します。あなたが神様の約束を信じるなら、その通りのことが起こるのです。その奇跡を少しずつ体験することによって、私達は、信仰の筋肉を鍛えることになります。しかし、これは鍛えないと衰えるものなので、日々の訓練が必要になってくるのです。
 聖書の中に、強い信仰、弱い信仰、満ちた信仰、薄い信仰が出てきます。私達は、すでに聖霊の働きにより「信仰」が与えられていますが、これを鍛えることによって信仰生活の醍醐味を味わうことが出来るのです。
 イエス様の周りにはいつも、人々に軽蔑されているような人々(取税人、娼婦、病人)がいました。なぜならイエス様は、このような罪人といわれる人々を赦し、癒すために来られたからです。しかし、パリサイ人らの目には、それは異様に思われたのです。イエス様は、彼らに対し、たとえ話しをされました。一つは、「羊九十九匹をおいて、いなくなった一匹を探す」というたとえ話、二つ目は、「銀貨十枚のうち一枚を紛失し探し出す」たとえ話、そして三つ目が放蕩息子の話です。
 弟息子は、父親から財産の分け前をもらい、父親の目の届かない遠い所に出かけました。ところが彼は、もらった財産を湯水のように使い、あげくの果てにはユダヤ人が汚れた動物として嫌っていた豚の世話をして食いつなぐ生活を強いられ、その餌で腹を満たしたいと思うほどに落ちぶれます。でも、その時、故郷の父を思い出し、悔い改めて、父のもとに帰る決心をします。一方、父親は、息子が出て行ったときから、彼の帰ってくるのを心待ちにしていました。父親は、息子がまだ家までは遠かったのに、父の方から彼を見つけ抱き寄せ、口づけをしたのです。彼は良い着物を着せられ、指輪をはめ、靴が与えられました。これらは息子としての証です。
 このたとえ話は、天の父なる神様と、神様から離れた生活をしている人との関係を表しています。放蕩息子は悔い改め、父に受け入れられました。天のお父様は、人々が悔い改め、父のもとに帰ってくるのを心待ちにしているのです。放蕩息子は、「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか」と考え、帰る決心をしました。天におられる全能なる父も、すべてを持っておられる恵みに溢れたお方です。イエス様を信じるならば、私達はそのお方の子どもとなることが出来るのです。なんという恵みでしょうか。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8) 私たちには、信仰が与えられており、そして私たちの父は恵み溢れた方であることを知っています。益々、父なる愛の中で信仰を豊かに働かせ、神様の栄光を現す者として信仰の筋力を鍛えていきましょう。

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