試練に会うとき(ヤコブの手紙1:1~18)

 このヤコブの手紙には、「行い」という言葉が沢山出てきます。(2:12、2:14、2:17、2:20など)
 しかし、パウロの書簡では、「救いは行いではなく、信仰によって救われる」と強調しています。では、どちらかが間違っているのでしょうか。いや、そうではありません。彼らは、「信仰によって救われ、その救いを受けた人には行いが伴う」と語っているのです。
 私たちは、イエス様を信じて新しく造り変えられました。罪からの束縛から解放され、新しくされた者は、聖霊に導かれ、神の子としての行いをします。
 私たちがイエス様を信じるということは、私たちの努力や修養ではなく、ただ神様の一方的な憐れみと選びによるものです。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)
 神様の愛によって選ばれ、救い出され、聖霊の導きによって信仰生活が始まります。しかし、救われたからすべてが順調にいくとは限りません。聖書には、「試練に会う」と書かれてあります。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」(ヤコブ1:2、3)
 しかし、「試練に会うとき、それを喜びとしなさい。」と勧めています。聖書の中に、試練にあった人物が沢山出てきます。パウロもその一人です。パウロは、クリスチャンを迫害する者でしたが、イエス様に出会い回心します。彼は聖霊の力によって宣教の働きを始めますが、その日々は試練の連続でした。
「~私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。~」(Ⅱコリント11:23~27)そのパウロがこう言っています。「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
 ヤコブもパウロと同様沢山の試練を通されたのです。
さまざまな経験をして来た彼が、彼の学んだことから教えてくれています。「試練が忍耐を生じさせ、その忍耐を完全に働かせることによって完全な者となる」(ヤコブ1:3、4)と。
 私たちも、この信仰生活の中で、さまざまな試練を通されます。しかし、その試練に耐えることによって、神の報いを天で受けることが出来るのです。それは「いのちの冠」です。
 私たちは、試練に会うとき、信仰によって喜んでいきましょう。神様は、その中で神様のご計画を教えて下さいます。サタンは必死に悪い思いを持って来るでしょう。時には、誘惑してあなたを神様から引き離そうとするでしょう。しかし、騙されてはなりません。神様は、試練を通して、私たちの信仰を試しておられるのです。その試練に耐え抜いた者に、神様は天において義の冠を与えて下さるのです。

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