洗礼と聖餐

 Iコリント10章には、「洗礼」と「聖餐」について、それらがどのような意味を持つかが記されています。
 まずパウロは、洗礼式について、旧約の時代の「洗礼の型」から説明しています。
 「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」(10:1、2)
 これは、かつてイスラエルの民がエジプトで約400年間の奴隷生活を強いられ、その苦しみから神様が彼らを救い出した事実を語っています。彼らが、エジプトからモーセを通して救い出されてから、初めて体験した奇蹟は、目の前で紅海が分かれ、その乾いた地を歩いて向こう岸にたどり着く、という素晴らしい奇蹟でした。波は敵を飲み込み、彼らは400年縛られていた苦しみから完全に解放されたのです。その後、約束の地を目指して40年もの間荒野を旅しますが、毎日天からのマナを食べて養われました。
 また、旅をしている間、何度も危機的な状況に陥りました。しかし、その度にいつも神様の助けがありました。
 縛られていたエジプトでの400年間は、罪に縛られていた生活を表しています。神様は、そこからイエス様を通して、私たちを救い出して下さいました。そして、救い出された民が海(紅海)を通ったように、私たちは水をくぐることによって(洗礼)という形で信仰を表し、そこから荒野の生活、つまり信仰生活をスタートさせるのです。信仰生活にはマナが欠かせません。このマナは、御言葉を表しています。マナによって生き、イエス様に従い、成長し、約束の地(天国)を目指して前進することが出来るのです。神様は、民が渇いた時には水を与えて下さいました。それは聖霊を表します。私たちが問題にぶつかり、苦しみ渇いている時、聖霊によって助けを得、霊的な満たしを受けることが出来ます。
 また「聖餐」については、10:16、17に記されています。イエス様を信じ受け入れ、洗礼を受けた者は、聖餐に与ることが出来ます。
 聖餐は、キリストの血にあずかること、キリストのからだにあずかることであり、十字架のみ業を忘れることのないよう、イエス様がお命じになったことです。つまり、この聖餐に与る度に「私は、イエス様を信じ、新しいいのちが与えられた」と確信を持つことが出来るのです。
 私たちの信仰は時に弱くなります。そのような私たちに、イエス様は、見える形「聖餐式」を通して、私たちを励まして下さっているのです。
 パンは、キリストのからだを表しています。この一つのパンを分け合って食べることによって、教会がキリストの身体であって、私たち一人一人が各器官であることを確認します。私たちは、それぞれの賜物をもって神様の栄光を現していくのです。だれも欠けてはなりません。
 私たちは、イエス様によって新しく変えられ、主と共に歩む者です。
いつも天のマナをいただきつつ、主の栄光のために働いていきましょう。

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