救い主イエス・キリスト

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)
 イエス様は、神様が「人類を救う救い主」として、この地上に送られた方であり、また、神の御子として天から降りて来られた方です。ですから、イエス様は「神について」「天国について」「地獄について」「人間が作られた目的について」「この世の終わりについて」「さばきについて」「魂の救いについて」人々に語られました。
 イエス様は、地上におられる間、神の目において「罪とは何か」を示し、なすべきことを教えられました。しかし、当時の宗教家やパリサイ人にとっては、それらすべてが考えられないことだったのです。何故なら、彼らは誰よりも律法を守っていましたし、自分は汚れのない聖なる者であると自信を持っていたからです。
「私は、神様に責められることはなにもない。すべて行っている。」と、ある青年が言いました。しかし、イエス様が「では、あなたの持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい。」言うと、その青年は何も言わず立ち去ってしまいました。イエス様は、彼の心の中にある「神様より大切にしているもの」を指摘されたのです。イエス様は、その人の表面ではなく、心をご覧になられ、根本にある問題を指摘されます。「自分の目において」ではなく、「神様の目において」それらがどう映るのか、が大事なことなのです。
 ある人は、イエス様を試そうとして、姦淫の現場で捕らえられた女をイエス様のもとに連れて来ました。聖書には「姦淫の罪は石打ちの刑」だと定められており、神様の愛を語るイエス様が果たしてどのように対処するかを試すためでした。
すると、イエス様は「罪のない者からこの女に石を投げなさい。」と言い、人々に目を注ぐと、石を持って集まっている者の内、年寄りから一人去り、二人去り、段々と去っていき、最後はイエス様と捕らえられた女だけになったのです。罪のないイエス様だけが、彼女に石を投げることが出来たお方でした。しかしイエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」と彼女に言われ、家に帰らせました。
 神様の前に、「私には罪はない」と言える人は誰もいません。パウロも人間的には立派な人物でした。しかし、彼も神様の前に出る時、「罪人のかしら」ですと言っています。
 イエス様は、このような「罪人のかしら」である、私たちの為に「救い主」としてこの地上に来て下さいました。イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、神の子とされました。神様の前に「聖である」とされたのです。なんという恵みでしょうか。この恵みの中に生かされていることを感謝しつつ、へりくだって、信仰生活を送ってまいりましょう。

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