光であるイエス様(ヨハネの福音書9章)

 ヨハネの福音書は、特に「イエス・キリストこそ神である」ということを強調して、書かれてあります。何故なら、イエス様は、沢山の奇蹟を起こすことで、ご自分が「神の御子である」ことをこの世に示されたからです。この9章の奇蹟も、その一つです。
 イエス様は、道の途中で、生まれつきの盲人を見られました。
神様は、いつも私達のことを見ておられる方です。そればかりではなく、神の子どもとしての祝福を与えようとされているのです。
 弟子たちは、生まれつきの盲人を見てイエス様に質問しました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(旧約の中に、罪のために神様に呪われ、病気になるという記事が沢山あるから)
 イエス様は、「この人が罪を犯したからでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と言われ、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗られました。そして「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われたのです。盲人が、その言葉の通り、行って洗うと、彼の目は見えるようになったので、人々は驚きました。彼は盲目ゆえに働くことが出来ず、いつも物乞いをして生活していました。しかし、彼の人生は、目が見えることによって変わったのです。
 彼の一番の願いは、「目が見えるようになること」でした。目が見えないために、彼は自分で生きていくことが困難に思えました。しかし、イエス様は彼に目を留めて下さり、一番の必要を満たして下さいました。
 イエス様はご自身のことを「世の光である。」と言われました。それは、私たちの心の闇を照らされる、唯一の方であるからです。イエス様を「主」としてお従いするなら、私たちは光の中を歩むことが出来ます。イエス様の語られる御言葉は、私たちの足元を照らし、行くべき道を示されます。(詩篇119:105)
 盲人である男性は、イエス様によって闇であった心に光が与えられまし「泥を塗られ、池で洗う」など、ばかげた話に聞こえます。しかし、イエス様のことばを信じ、受け入れた者が、奇蹟を体験し、光を見出し、祝福の道を歩むことが出来るのです。(Ⅰコリント1:18)
 イエス様の十字架と復活も、常識的に見るなら、ばかげた話です。しかし、このことを信じ、受け入れた者だけが、滅びの中から救われ、天国において永遠の命が与えられるのです。これは、神様が与えて下さった賜物です。
 盲人の目が開き、彼が光を見ることが出来たように、イエス様はこの世に光を与えることの出来るお方です。私たちの闇を照らして下さるお方に日々信頼しつつ、御言葉を信じ、従っていきましょう。

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