罪からの解放

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ローマ7:15)
 世界中の誰もが、幸せを求めて生きています。しかし国と国との争いや、民族と民族との争いが絶えず、議論を重ねても、武力を増しても、決して私たちの理想どおりにはいっていない、それが今の世界です。
 さて、幸せになれない原因はどこにあるのでしょうか。
 ローマ書の7:19、20には「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」と書かれてあります。
 良いことをしたい、と思っているのに、悪いことをしてしまう。それは、経済的に苦しいからか、環境が悪いからか・・・。いや、そうではない。聖書は、私たちの心の内にある「罪」がそうさせている、と言っているのです。
 私たちが、どんなに努力して善を行い、良い社会を作り、幸せになろうとしても、「罪」がある限り、私達に本当の幸せは訪れないのです。
 ダビデは、イスラエル帝国を築き上げた立派な王でした。しかし、彼は自分の部下であるウリヤの妻と寝て妊娠させ、そればかりでなく、自分の王位と名声を守るために、忠実な部下であるウリヤを意図的に戦場で殺してしまうのです。しかし、それから彼の心に平安が失われていたことが詩篇51:2~3から読み取ることが出来ます。これは、預言者ナタンから、ダビデのウリヤに対する罪を指摘された時の悔い改めの祈りです。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」彼は、自分の犯した罪を心から悔い改め、更に「私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」そして「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)と祈っています。
 神様は、どんな人でも、悔い改めて神様のもとに立ち返るなら、受け入れて下さいます。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)神様の思いは、「悪者でさえ、悔い改め、神を信じ、救われること」です。「正しい人が自分の正しい行いから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ。しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行うなら、彼は自分のいのちを生かす。」(エゼキエル18:26、27)
 もし、罪を悔い改め、イエス様の十字架を受け入れるのなら、私達は新しい心、新しい霊を受け取ることが出来、本当の幸せが訪れるのです。

「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。」(エゼキエル18:31)

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