私たちのうちに幕屋を張られた(ヨハネの福音書1:1~34)

 ヨハネの福音書1章と見ると、神様がこの天地を造られた時、三位一体なるイエス様、そして聖霊様もその場にいて、共に作業されたことが分かります。
 そして、天の父なる神様は、子なるイエス・キリストをこの地上の送り(1:14)、人類の罪の贖いの為に十字架につけ、死なせました。しかし、イエス様は、聖書の預言の通り、三日目によみがえられました。このよみがえりによって、神様の救いの計画が完成されたのです。
 私たちが聞いた、また今宣べ伝えている「福音」とは、「神であるイエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれた」だけではありません。「死なれた方が、聖書の預言の通り三日目によみがえり、天に昇られ、今も生きて私たちのために執り成して下さっている、今も生きて働いておられる」ここまで語って「福音」というのです。使徒達は、よみがえられたイエス様を力強く証したのです。
 福音は、信じない人にとっては愚かな話でしょう。しかし、信じる私たちにとっては、神の力なのです。
 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)
 ヨハネの福音書1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ある聖書学者は、「ことばは人となって、私たちのうちに幕屋を張られた。」と言いました。幕屋とは、イスラエルの民が出エジプトした際、荒野の地で礼拝所として使われた神様のご臨在を象徴するものです。神様に選ばれ、聖別された大祭司だけが至聖所に入ることが許され、そこで神のことばを聞き、それを民に伝え、民はそのことばに従って生活をしていました。しかし、今は恵みの時、救いの日だと神様は言われます。何故なら、神であるイエス様が十字架にかかって罪の罰を受けて下さったことによって、私たちは聖められ、自由に神様との交わりを持つことが許されたからです。イエス様ご自身が私たちのうちに幕屋を張って下さったのです。なんという恵みでしょう。
 罪が赦され、神様を信じ、神様を心から礼拝する者の集まりが「教会」です。この共同体はイエス・キリストを頭とし、イエス様の愛によってつながっています。
 イエス様は、私達のうちに幕屋を張って下さいました。神様のご臨在が私たちの内にあるのです。ですから、私たちは、神様と常に交わり、イエス様と同じような歩みをすることが出来るのです。感謝しましょう。

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