イエス様の十字架の力(ルカの福音書22:39~46)

 いよいよ、十字架にかかられる時が近づくと、イエス様はいつものようにオリーブ山に登って祈られました。そして、そこで「(もし、)みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と苦しみもだえながら、切に祈られたのです。
 人類の罪の全てを背負うということは、聖なる父なる神様から引き離され、地獄を味わうということです。天で父なる神様と共におられたイエス様にとっては、耐え難いものでした。血の汗が出るような祈りは、その苦しみと悲しみの中から出てきたものです。
 神様が共におられないということは、暗闇を味わうことです。そこには光も希望もありません。イエス様は、私たちの罪を赦すために、身代わりとなってその苦しみを受けて下さったのです。
 イザヤの53章には、イエス様の十字架の預言が書かれてあります。イエス様は、ただ、私たちの罪を赦すために、自ら十字架にかかって下さったのです。なんという深い愛でしょうか。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
 イエス様の尊い犠牲の故に、私たちは罪赦され、暗闇も死も味わうことなく、永遠の光の中に入れられたのです。そこには痛みも苦しみもありません。すべてイエス様が贖って下さったからです。
 出エジプトの際、一匹の傷のない羊の血によってイスラエルの民が死から救われたように、一人の傷もしみもない、汚れのないイエス様の身代わりの死によって、私たちは、永遠の滅びから救われたのです。
 イエス様は、十字架にかかれ死なれましたが、三日目によみがえられました。復活のイエス様の十字架の血潮は、私たちに新しいいのちをもたらして下さいました。イエス様のよみがえりと共に、私たちも新しい者としてよみがえったのです。
 私たちの生きる世界は、信仰の世界です。聖書に書かれてある通り、信じれば救われるのです。信じれは、その通りになるのです。信じれば、イエス様の十字架の血潮の力が私たちの上に注がれるのです。十字架の力は、私たちを暗闇の世界から、罪の束縛から解放します。
 今週も、イエス様の十字架の贖いに感謝し、また、イエス様の十字架の希望に目を留め、信仰を持って一週間を過ごして参りましょう。

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