旧約聖書が預言した救い主イエス(ヨハネの福音書5:10~24)

 イエス様は、ベテスダの池の近くで「38年もの間、奇蹟が起こるのを待ち続けていた病人」を癒され、ご自分が神の子であることを、しるしと奇蹟をもって示されました。
 ところが、イエス様が病人を癒された日が安息日だったので、たちまちユダヤ人たちの非難の的になってしまいます。
 ユダヤ人は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。~七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト記20:8~10)という律法を堅く守っており、病人を癒すことも、病人が癒されて床を上げることも「仕事」にあたる、と訴えたのです。
 ルカの福音書14:1~6にも、イエス様が安息日に水腫を患っている人を癒された記事があります。イエス様はその人を癒される前に、律法の専門家やパリサイ人に「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と尋ねました。彼らは何も答えることが出来ませんでした。それでイエス様は、その人を抱いて癒し、帰され、こう言われたのです。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」と。それに対しても彼らは何も言うことが出来ませんでした。
 律法学者やパリサイ人たちは、イエス様の存在をうとましく思っていました。自分を神の子とし、また多くの者がイエス様のことばに耳を傾けていたからです。彼らは何とかしてイエス様を陥れようといつもチャンスを伺っていましたが、ことごとく失敗に終わりました。彼らは旧約聖書に精通した人々でした。しかし、霊の目が開かれていなかったので、旧約聖書に書かれている救い主の預言が、イエス様について書かれてあるということを悟ることが出来なかったのです。
 イエス様は、訴え殺そうとしている彼らに向かって、「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざ(十字架の贖い)を子に示されます。」と言われました。しかし、彼らはイエス様が言われていることを何一つ理解することが出来ず、ますます心を頑なにしていきました。
 聖霊の働きなしに、イエス様を救い主として受け入れることは出来ません。かつての弟子たちも、イエス様のことばを理解することが出来たのは、聖霊を受けて後でした。
 私たちは心を頑なにしてはいけません。神様のことばを受け入れるか受け入れないかは「永遠の死」と「永遠のいのち」に関わることだからです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

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