献金

「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」(使徒の働き4:32~37)
 復活の主に再び会い、本当の信仰をいただいた弟子たちは、イエス様が行われていたしるしと奇跡を行い、大胆に福音を宣べ伝えました。
「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」(ヨハネの福音書14:12)
 すると、多くの人が捧げものをもって主の働き人を支えてくれたのです。バルナバもその一人でした。
 献金というと、一般の人は、お賽銭や会費などと同じような認識を持つ人も中にはいます。献金は、組織や団体のための運営のために集めるものではなく、またお賽銭のように願いを叶えるためのものではありません。
 献金は、神様が与えて下さった恵みに感謝して、心から喜んで神様の前にお捧げするものです。
 献金は、自発的なものですが、十分の一献金についてはレビ記27:30に「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」と書かれてあります。この箇所を見ると、私たちが捧げる什分の一献金は、主のものであり、それは主の命令であることが分かります。神様は、十分の一献金を捧げることによって、あなたの信仰を見せて御覧なさい、と言われているのです。あなたが進んでそれを捧げる時に、神様はあなたの信仰を見て、心から喜ばれ、祝福を溢れるばかりに注いで下さるのです。
 ルカの福音書18:9~14には、パリサイ人と取税人の祈りが比較して書かれています。二人は、祈るために宮に上りました。そして祈り始めたのです。パリサイ人は、自分は常に正しく、十分の一も捧げ、罪人とさげすむ取税人のようでないことを感謝しました。一方、取税人は、自分の胸を打ちたたき、罪人である自分の汚れを悔い改めて、神様に哀れみを請いました。
 どちらが神様に喜ばれ、義とされたでしょうか。それは、心から自分を低くし取税人でした。神様は、形を喜ばれるのではなく、その人の神様に対する心からの思いを見ておられる方です。
 イスラエルの民に神様が指摘されたことがありました。彼らは見た目は主に従っているように振舞っていました。ですから、自分の思うようにいかない時は常に神様を責めました。しかし、神様に返すべき十分の一献金をおこたっていたのです。彼らが祝福されない理由は、神様にではなく、自分自身にあったのです。「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。~あなたがたはわたしのものを盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。」(マラキ書3:6~11)
 神様は、私たちを祝福して下さる良いお方です。「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ書3:10)信仰と喜びを持って捧げましょう。

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