神のことばに励まされる

「~人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。~」(詩篇145篇)
 詩篇は、人々の心の問題をそのまま表現しています。昔の聖徒達は、「心に歌なき者よ。詩篇を読め。」と言いました。
 また詩篇は、私たちの心を励まし、力づけます。人生には、試練や悩みがあり、また行き詰まりを感じる時もありますが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)」、と聖書は語っています。神様は、悩む者が叫んで祈る時、必ず答えて下さり、神様はことばをもって現れて下さいます。
 マタイの8:5~13には、しもべの中風の癒しを求める百人隊長の記事があります。イエス様は、隊長に「行って、直してあげよう。」と言われましたが、隊長は「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と言いました。イエス様は驚かれ、ついて来た人たちにこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と。隊長は、イエス様の「ことば」に力があると信じました。イエス様のことばの通りになると信じきったのです。その信仰の通り、しもべは癒されました。神様のことばを信じた所に、神様の恵みが注がれるという証です。
 詩篇の145:1~7は、ダビデが歌った賛美です。彼は八人兄弟の末っ子で、羊飼いをしていました。戦いに出る年齢にも達していなかった彼が、神様に選ばれ、預言者サムエルによって油が注がれました。彼の人生は、神と共に歩む人生でした。戦いの度に勝利をおさめ、誰もが彼を尊敬し、彼の功績をたたえました。しかし、サウル王の心には妬みと憎悪が燃え上がり、ダビデを幾度となく殺そうとします。ダビデは、それでもなおサウルを油注がれた方であることを忘れず、王としての扱いをし続けました。それは、祝福となって、彼に返ってくることとなります。
またダビデは、息子によって国を追い出される経験もしました。アブシャロムは、ダビデを神が立てた器であることを忘れ、傲慢になりました。その結果、アブシャロムは滅びることになりました。サウルにしても、アブシャロムにしても悔い改めはありませんでした。
 妬み、憎しみ、傲慢、嘘は、聖霊様の入る余地を残しません。悪に対しては、悔い改めとイエス様の贖いが必要です。自分の汚れを悔い改め、へりくだってイエス様を迎える時、聖霊様によって聖別され、神の子としての確信が与えられます。そして、神様のことばを聞きつつ、神様のために働きをすることが出来るようになるのです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)
 ダビデは、最期まで主のことばを重んじ、主のことばに励まされ、力づけられ前進し続けました。それが、彼の祝福のもといとなったのです。

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