主によって奮い立つ(Ⅰサムエル記30章1~10節) 富高尚

 ダビデはサウルに命を狙われ、異邦の地であり、イスラエルの敵国であるペリシテの地に逃れます。それは、自分の思いや考えによるこの世的な問題の解決方法に頼って、自分の力で生きていくという神様から離れた生き方でした。しかし、ある日突然、そのしてきた事の刈り取りをする事になってしまいます。一年四か月のペリシテの地で築き上げてきたものを、わずか三日ですべて失うことになったのです。その出来事により、ダビデもダビデの部下たちも、「声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」(Ⅰサムエル30:4)と書かれています。
 信仰生活においても、努力の結果が伴わない時、「主にあって正しいことを行なっているはずなのに、その成果を見ることができない。」という時、私たちは落胆し失望します。また、将来に対する不安を抱く時、将来が定まっていない、不確実な将来を見てそうなってしまいます。どこに向かっているのか分からない、解決の道しるべが一切見えてこない時にもまた、失望し落胆するのです。しかし、私たちは自分の思いや考えでなく、神様のご計画に目を止めるべきです。神様は、はっきりと私たちの将来について、平安と希望を与え(エレミヤ 29:11)、そのような不安な中にいても、神を愛する者には主がすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)、と約束してくださっていることを信じなければなりません。
 また、自分の重荷があまりにも大きすぎる、自分が取り組める能力を超えている、と感じる時にも、私たちは恐れや恐怖から失望落胆してしまいます。ダビデは、すべての物を失った絶望の中、これまで行動をも共にしてきた仲間から石で打ち殺されそうになりました。
 しかし、そのような絶望的状況の中で、ダビデは「主によって奮い立った」のです。信仰は、積極的に意志を用いていく作業です。励ますのは自分自身です。そして大事なのは、それは「主によって」行うことです。自分自身には希望がありません、絶望のみです。けれども、力の源である主ご自身に立ち返るのです。私たちは、主によって奮い立つことが出来ます。そして、その時神様は、ダビデに答えて下さったように、あなたにもはっきりとみことばによって答えて下さいます。

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