「救いは失われることがあるのか、ないのか」

アイリーン・ボイサー師

 「救いは失われる」とか「救いは失われない」という神学もありますが、私は自分の経験の中で「救いは容易(たやす)く失われることはない」という考えにいたりました。なぜなら、救われた後に罪を犯したとしても、神の子どもという事実は変わらないからです。ぺテロはイエス様を裏切りましたが、彼は悔い改めたときに赦しを受けました。その反対にユダは悔い改めずに首をくくりました。救いが失われないためには、再びイエス様に心を明け渡す「悔い改め」(方向転換、思いの変革)が大切なのです。
 それは日々の生活の決断です。たくさんのクリスチャンが赦しは乞うけれども悔い改めて、心を明け渡さないでいます。私自身がそのような状態でした。麻薬中毒であり、売人だったのです。そしてたくさんの姦淫の罪を犯していましたが、その中でも教会の奉仕をし、自分はクリスチャンだと言って、イエス・キリストを救い主だと知っていました。しかし、自分の心を完全に明け渡していなかったので、キリストとの関係になく、何回も薬を止めようとしましたができませんでした。そのためには聖霊様の助けが必要だったのです。
 イエス様は私たちの主となりたいと思っています。心を完全に明け渡すなら、聖霊様によって私たちは変えられるのです。もし、この聖霊様の語り掛けを無視し続け、悔い改めないならば、私も救いを失っていたことでしょう。(ヘブル10章26、27節)また、救いを知っているのであれば行いが伴うよう求められるのです(ルカ12章47、48節)。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

(マタイ7章21節)

これは働き人に語られた言葉であり、今日クリスチャンに語られている言葉です。救われて「みこころ」を行うことが重要なのです。やさしい神様は強要することはなさいません。聖霊によって語り掛けられます。
 完全に人生を明け渡し、みこころ行うときに神様は救われた者としての人生を与えて下さるのです。

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