わたしの心 マタイの福音書8章1~3節

富高 尚師

 ツァラアトに冒された人は、イエス様の前にひれ伏して「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と言い、イエス様はその人に「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。まるで二人の心が一つになったかのようです。主が、「わたしの心だ」と言われたその心とは、いったいどんな心なのでしょうか。※ツァラアトとはらい病(新改訳第二版)とか重い皮膚病(新共同訳)とか訳されています。
 この話は、イエス様が山から降りて来られた後の話です。イエス様は山に登り、みもとに来た弟子たちに、天の御国について、また、父のみこころについて教えられました。彼らや一緒に集まった多くの群衆は、その教えに驚いたと記されています。その教えは、彼らが律法学者たちから聞き、教えられたモーセの律法をはるかにしのぐものであり、同時に愛にあふれた教えだったからでしょう。ツァラアトに冒された人も、父なる神様は、正しい人にも正しくない人にも等しく雨を降らせてくださる優しいお方であることを知ったに違いありません。
 イエス様は、山の上に集まった群衆に向かって「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と命じました。
 私たちの神様に対する愛、人に対する愛は、どうしたら「完全」なものになるのでしょうか。ヨハネは手紙の中で次のように書いています。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。(Ⅰヨハネ4:16~17)「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Ⅰヨハネ4:19)「まず、~してくださった。」という言葉の中にはギリシャ語の「プロトス」という言葉が使われいます。これは「原型」とか「鋳型」という意味です。ちょうど一枚の鉄板が鋳型に押し付けられて「同じ形」の車がたくさんできるように、私たちも、神様の完全な無条件の愛にふれて初めて、神様の心、神の愛を知ることができるのです。ツァラアトに冒された人は、神様がまず愛してくださったということを知ったのです。そしてその心がイエス様とひとつになったのです。私たちも、外見や今の状況に囚われることなく、どんな人でも、神様に愛されている存在であることを宣べ伝えましょう。

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