「神のわざが現れるため」ヨハネの福音書9章1~7節

高森博介師

 この箇所には、生まれついての盲人が登場します。当時、盲人は人の世話になって生きることしかできませんでした。人の目を気にしながら、さげすまれながら、劣等感を感じて生きていました。ですから、弟子たちは「この人が盲人なのはこの人が罪を犯したからか、もしくはこの人の両親が罪を犯したからこのようになったのか」とイエス様に罪の報いを前提として質問を投げかけてました。
 人は自分の希望が叶わないときや、思い通りにならないと失望を覚え、無力さを感じます。そして、それが悪い報いと考えてしまうのです。しかし、ここでのイエス様の答えは彼が盲人なのは「神のわざが現れるため」でした。
 人は死にます。「死」とは当たり前のものではありません。アダムとエバが「善悪の知識の実」を食べ、神様に背いたときに入ったのです。このように人間には自由意志が与えられていました。神様に仕える自由もありますし、神様から離れる自由もあるということです。盲人の目が見えるようなるという奇跡を見たパリサイ人のある者は、安息日に癒しを行い、安息日を守らないものは神からのものではない(ヨハネ9:16)と、イエス様が救い主であることを否定したのです。しかし、癒された者はイエス様が預言者であり、救い主であることを告白しました。
 イエス様のされる御業は、私たちの理解の及ばないこともあります。盲人の目に御自身ツバキで練った泥を塗るという行為もその一つです。イエス様は盲人に「シロアムの池に行って洗いなさい。」と命じました。目の見えない彼にとってはそこそこ距離があるところです。彼はその言葉に従ったのです。そして、彼の目は癒されました。
 盲人は弱さを覚えていたからこそ、イエス様に求めることができました。人間には弱さがあるからこそ飢え渇きが与えられ、昨日も今日もいつも同じであるイエス様はそれを満たしてくださいます。また、聖霊が働いて霊を強めて下さり、その弱さからも解放されるのです。

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