「思いをはるかに超えた神様の介入」

河野由輝代師

≪テキスト:詩篇46篇1-11節≫
 「逃避」という言葉は否定的な意味合いにとられます。対義語は「直面」であり、それに向かっていくことが道を開く手段のように思われるからです。しかし、聖書には逃避することに否定的ではないのです。
 列王記第二18章で、アッシリアが北イスラエルを滅ぼし、南ユダの46の町も攻め取られ、最後の砦となったエルサレムが囲まれたとき、アッシリアは攻め込まない条件としてあらゆる要求を突きつけてきました。当時の王ヒゼキヤはエルサレムを守るためにことごとくその要求をのみ、エルサレムを守ろうと考えました。
 しかし、アッシリアは引かず、兵糧攻めにしようしますが、ヒゼキヤはシロアムの池から地下水路をエルサレム引いていたので、エルサレムを落とすことはできませんでした。そこで、ラブ・シャケという策士が民を惑わすために遣わされます(19節)。彼はヘブル語(ユダヤ人の理解できる言葉)で、民に語りかけ、軍勢の多さを比べさせ、ヒゼキヤやイスラエルの神様に対する悪口を言い、また、アッシリアに投降しなかったら、「お前たちは糞を喰らい、尿を飲むようになる」などと脅しました。そして、投降した場合には命の保証と住む土地まで用意するなどという嘘を並べてて誘惑しました。ユダの民はどちらをとっても救いのない二者択一を迫られたのです。
 しかし、神様はイザヤを通して別の道を語られました。「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(列王記第二19章34節)道がないと思える時に、主に身を避けるならば、私たちの思いを超えたことを神様はしてくださいます。イザヤの預言の後、アッシリアの18万5千人の陣営は主の使いによって打ち殺されました(列王記第二19章35説)。この史実はテイラープリズムというその当時のことが書いてある碑文に、エルサレムが囲まれたこと、アッシリアの兵が疫病で死んだ(実際は神の御業ですが)という記事が書かれてあり、そこに神の介入があったことの証です。
「やめよ(静まれ)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。(詩篇46篇10・11節)
 逃避しても良いのです。その場所が神様であり、主の前で静まり祈るなら、思いもよらなかった解決の道を神様が与えて下さるからです。

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