決して忘れない(ルカの福音書19:1~10)

 イエス様は、十字架にかかられる数日前に、エリコという町を通られました。1節から3節までには、たくさんの情報が盛り込まれています。ザアカイが取税人の頭であること、お金持ちであること、背が低かったこと(当時の男性平均身長は160センチ。ザアカイは150センチぐらいだったのではないか)、名前はザアカイ(きよい、純粋の意)であること。彼は、両親の期待を背負って行きましたが、そのようには成長しませんでした。お金さえあれば認められると必死に頑張りましたが、人を騙すことを覚え、人に認められるどころか、排除されるような存在になっていたのです。彼は、孤独の中で飢え渇いていました。そのような中、イエス様が自分の町に来られました。ザアカイは、イエス様がどのようなお方が一目見たいがため、いちじく桑の木に登りました。すると、イエス様はザアカイの所に来られ、声をかけられたのです(ルカ19:5)。ザアカイは、自分は見られていないと思っていました。しかし、イエス様はずっとザアカイを見ておられ、そして近づいて来られました。
 私たちは、時に自分の存在を軽く見がちです。「私なんか」「私がいても」「私がいなくても」と。しかし、神様は見ておられる方です。「一羽の雀さえ、神様の御前では忘れられていない」と聖書には書かれてあります(ルカ12:6)
 そしてイエス様は「ザアカイ」と名前で呼ばれました。ユダヤ的には会ったことのない人の名前を知っているということは預言者に違いないと思われていました。ザアカイは、初めてお会いするイエス様が自分の名前を呼んで下さったことで、「この方は預言者に違いない」と思ったことでしょう。それと同時にザアカイは、自分は神様に知れられていると確信したのです。神様は見ておられるだけではなく、「知って下さっている方」です。そして羊飼いが羊の名前を呼んで囲いから連れ出すように、私たちの名前を呼んで下さいます。何故なら、私たちは神様のものだからです(ヨハネ10:1~5)。羊飼いは、どんなに羊が多くでも必ず名前をつけます。そしてその羊の性格や特徴、性質を把握し見分けます。私たちの神様は決して私たちの名前を間違えることはありません。名前を呼び、イエス様ご自身が先頭に立って豊かな牧草地へと導いて下さるのです。
 イエス様が、「ザアカイ。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われた時、ザアカイは大喜びでイエス様を迎えました。イエス様を迎えたその時、ザアカイは救いを体験したのです。ザアカイは、自分が神様から忘れておられず、それどころか愛されていることを確信して喜びました(イザヤ49:15、16)。本当の愛を知った時、彼は大事なのはお金ではなく、イエス様に仕えることだと知ったのです。(19:9)

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