罪を赦す権威 

富高 尚師

(マルコの福音書2章1~12節)

 イエス様がカペナウムに来られた時のことです。そこには大勢の人が集まり、戸口のところまで隙間もないほどになったとあります。1章をみると、前回、カペナウムに来られた時にイエス様は、さまざまな病気にかかっている人の多くを癒し、悪霊を追い出されました。(マルコ1:34)そんなイエス様が再びカペナウムに来られたのですから、多くの人が集まるのは当然のことでしょう。しかし、イエス様は、病気を癒し、悪霊を追い出されていただけではありません。癒しと同時に、ガリラヤ全地にわたり福音を告げ知らせておられたのです。(マルコ1:15、1:39)今回、読んだ箇所でも、イエス様は「みことば」を話しておられたと書かれています。(マルコ2:2)当時の人々にとって、イエス様の語ることばは律法学者たちのことばとはまったく違っていました。律法学者たちは、病気や悪霊につかれた人を罪人として扱い、呪われた存在とみなしていました。しかし、イエス様は悔い改めて「福音」を信じるように教えられました。また、あえて「罪人」を招くために来られたことを大胆に宣言されています。(マルコ2:17)多くの人がイエス様の下に集まったのは、「裁きの神」(律法)ではなく、愛とあわれみの「救いの神」(福音)を求めて来たのです。
 そのような大勢の人々に混じって、中風の人が、四人の人に担がれてやってきました。しかし、群衆のために近づくことができません。ここでは、「群衆」とありますが、私たちにもイエス様のすぐ近くまで来ているのに、御前に出ることを妨げているものがあるのではないでしょうか。プライドであったり、傲慢であったり、自己憐憫であったり、孤独感や疎外感であったり、様々です。
自分ではイエス様の前に出ることのできない中風の人を、イエス様の前に出させたのは、四人の人でした。この四人の人と、中風の人とはどんな関係だったのでしょう。それは、後のこと考えずに、他人の家の屋根をはがしてまで、中風の人をイエス様の前につり降ろすほどの親しい関係です。単なるお友達の関係ではないことは容易に想像がつきます。単なる知り合いや、近所の人というだけの関係でもなかったでしょう。この五人は、いつも祈り合い、助け合い、励まし合う関係、五人が一人一人のことを真剣に思い祈り合う関係だったのではないでしょうか。
 イエス様は、そのような彼らの信仰をご覧になられました。イエス様はいつでも私たちをご覧になっておられます。当時は、病にかかることはすなわち罪人の象徴でした。そのような当時の常識の中で、彼らの取った行動は、中風の人を、その病のままで、イエス様の前に出させることでした。イエス様の前に出るなら、必ず癒されるという信仰に立って、行動したのです。イエス様は病を癒し、罪を赦す権威を持っておられます。また、信仰を持ってご自分に近づく人を完全に救うことがおできになる方なのです。(へブル7:25)

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